道徳で、子どもの権利条約について扱った。
子どもに「人権」が認められるようになったのは、ごく近代になってからである。
子どもは、未大人、大人の下、劣等なものとしてみなされていた長い歴史がある。
日本において、子どもは、教育を受ける「義務」があると思っている。
心から権利だとは思えないのかもしれない。
子どもの一日の忙しさを見ていれば、さもありなんというところである。
ご存知の通り、世界、特に貧困地域はそうではない。
学校に行く権利が与えられていない。
その理由は労働であったり戦争のせいであったり、様々である。
先進国とは、忙しさや困難の質が全く異なる。
ちなみに、授業では以下のユニセフの資料と動画を使わせてもらった。
子どもの権利条約
https://www.unicef.or.jp/kodomo/kenri/syo1-8.html
SDGs CLUB
https://www.unicef.or.jp/kodomo/sdgs/kyozai/17goals/4-education/
「子どもの権利」というと、ともすると、わがまま放題と混同しがちである。
しかし、実際に権利が奪われている子ども達を知ることで、権利とは何かを考えることができる。
「最低限保障されたい権利」のレベルが、全く違う。
「勉強したい」がまず夢であり、将来なりたい職業に就く夢は、その先の先の遠い夢である。
自分が自分らしくいられる権利というのが、人権である。
これは大人も子どもも変わらない。
人権という言葉は、層が厚い。
最低限の「生命の維持」というレベルから、自己実現の自由まで様々である。
これを全員が保障されるべきだと主張する時、人権のぶつかり合いが起きる。
考えの違うもの、特に少数派や弱い立場の者が排除される。
誰かが自分の権利は守られるべきだと主張する時、他者にもその権利が保障されていることを忘れてはならない。
子どもの人権を認めようという時、大人の我々にも人権がある。
大人が自分を大事にすることで、子どもの人権も尊重しようと思いやすくなる。
自分を酷使して疲れているせいで、他者の人権を侵害しているかもしれない。
まず自分を大事にし、同時に他者を大事にする。
今周囲から与えられているレベルの人権でも、意識すれば、感謝できる面がかなりあるかもしれない。
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