学級の係を減らして、気付いた人が進んでやることになっている。
配り物や窓の開閉、黒板をきれいにしたり、ちょっとした手伝いをするなど、様々である。
(黒板に自分で書いた文字は、自分できれいにした方が良いと思っているが、
進んでやってくれる子どもがいるので、有り難く思って敢えて任せている。)
そうすると、とてもよく気付いて動く子どもと、そうでない子どもに分かれる。
係から自主的な動きへの移行期として、この事態は不可避である。
当然、よく気付く子どもから不満とも疑問ともとれる言葉が出る。
「先生、これでいいのですか」と。
よくぞ言ってくれた、という感じである。
そこで、こんな話をした。
「人という字は、二つの棒が支え合ってできている。」
金八先生の有名な話である。
本物の「人」の字の語源とは違うが、本物よりわかりやすくて納得がいく。
そもそもこの話を考えたのは、新渡戸稲造だという。
さすがの偉人である。
ところで、その解釈でいくと、右側の棒が支え役である。
左側は、完全に寄りかかっている。
何だか、不公平ではないか。
そうではない。
右側の棒も、左側の棒がないと倒れてしまう。
力を発揮する対象がいてこそ、自分も立てる。
つまり、得意分野では大いに力を発揮すれば良い。
一方、苦手な分野では、助けてもらえば良い。
この役割は、常に変化する。
算数が得意な人は、算数で周りに力を提供すれば良い。
サッカーが得意な人は、サッカーの時に。
音楽が得意な人は、音楽の時に。
私は何も得意なことがないという人は、手伝いでも何でもやれることはある。
いつも明るく楽しい話を周りに提供できる人がいる。
話すのが苦手な人は、そういう人を羨ましく思う。
しかし話すのが苦手な人は、悩んでる人の悩みをきく役は最適である。
ついべらべらアドバイスをしてしまう人より、黙ってきいてくれる人の方が有り難い。
そこで力を発揮すればいい。
そばにいるだけで、役に立てている。
だから、自分がやれることは惜しみなく100%提供する。
脚が折れて松葉杖をついている仲間がいたら、今健康な自分が支えてやればいい。
心が折れている仲間がいたら、今心が元気な自分が支えてやればいい。
支えてもらっている側も、いつか支える側にまわればいい。
支えている方も、役に立っている自分に自信が持てるものである。
だから、お互い様である。
時に支えてもらって、時に支える。
学級は異なる人間の集まりなのだから、それでいい。
ただ、支えてもらいっ放しではいけない。
気付いた仕事は特定の人に頼らずやれるクラスにしたい。
そんな話をした。
何かの参考になれば幸いである。
2014年1月24日金曜日
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