2014年1月24日金曜日

人は支えて、支えられて生きる

学級の係を減らして、気付いた人が進んでやることになっている。
配り物や窓の開閉、黒板をきれいにしたり、ちょっとした手伝いをするなど、様々である。
(黒板に自分で書いた文字は、自分できれいにした方が良いと思っているが、
進んでやってくれる子どもがいるので、有り難く思って敢えて任せている。)

そうすると、とてもよく気付いて動く子どもと、そうでない子どもに分かれる。
係から自主的な動きへの移行期として、この事態は不可避である。
当然、よく気付く子どもから不満とも疑問ともとれる言葉が出る。
「先生、これでいいのですか」と。
よくぞ言ってくれた、という感じである。

そこで、こんな話をした。
「人という字は、二つの棒が支え合ってできている。」
金八先生の有名な話である。
本物の「人」の字の語源とは違うが、本物よりわかりやすくて納得がいく。
そもそもこの話を考えたのは、新渡戸稲造だという。
さすがの偉人である。

ところで、その解釈でいくと、右側の棒が支え役である。
左側は、完全に寄りかかっている。
何だか、不公平ではないか。

そうではない。
右側の棒も、左側の棒がないと倒れてしまう。
力を発揮する対象がいてこそ、自分も立てる。
つまり、得意分野では大いに力を発揮すれば良い。
一方、苦手な分野では、助けてもらえば良い。

この役割は、常に変化する。
算数が得意な人は、算数で周りに力を提供すれば良い。
サッカーが得意な人は、サッカーの時に。
音楽が得意な人は、音楽の時に。
私は何も得意なことがないという人は、手伝いでも何でもやれることはある。

いつも明るく楽しい話を周りに提供できる人がいる。
話すのが苦手な人は、そういう人を羨ましく思う。
しかし話すのが苦手な人は、悩んでる人の悩みをきく役は最適である。
ついべらべらアドバイスをしてしまう人より、黙ってきいてくれる人の方が有り難い。
そこで力を発揮すればいい。
そばにいるだけで、役に立てている。

だから、自分がやれることは惜しみなく100%提供する。
脚が折れて松葉杖をついている仲間がいたら、今健康な自分が支えてやればいい。
心が折れている仲間がいたら、今心が元気な自分が支えてやればいい。
支えてもらっている側も、いつか支える側にまわればいい。
支えている方も、役に立っている自分に自信が持てるものである。
だから、お互い様である。

時に支えてもらって、時に支える。
学級は異なる人間の集まりなのだから、それでいい。
ただ、支えてもらいっ放しではいけない。
気付いた仕事は特定の人に頼らずやれるクラスにしたい。

そんな話をした。
何かの参考になれば幸いである。

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