2017年12月13日水曜日

子どものえらさ

叱ることは、必要である。
様々な教育論があるが、このことに関しては、そうだと確信している。

ただし。
その時自分が叱ったことが正しかったかは、自信がもてないことこの上ない。
いつでも、そうである。
道徳的に正しかったとしても、相手にとってはそれが良いとも限らない。

だから、叱るという行為は、諸刃の剣である。
作用反作用の法則よろしく、強く叱れば叱るほど、その分自分にも返ってくる。
正義を振りかざしていくほどに、苦しみは深くなる。
相手の苦しみに寄り添いながら叱ることができるなら、それが何よりもいい。

自分が正しい
自分が正しいはず
自分が正しいと言ってほしい

堂々巡りをして、果てには周りに同意を求めだす。
一瞬はほっとする気がするのも束の間、すぐにまた新たな不安がくる。
理屈をつけるほどに、より心は重くなる。
本当に確認をしたい相手は、自分の他には一人しかいないからである。

心がすっと軽くなる瞬間がある。
叱った子どもに、朝会える。
「おはようございます」とあいさつをしてくれる。
「おはよう」とぎこちない笑顔で返す。

軽くなった瞬間に、また重くなる。
「ごめんね」「言い過ぎた」と心の中では言っている。
直接は口に出して言えないのが、弱いところである。

子どもを、「えらい」と思うことがある。
何もなかったように、笑顔で「先生」と呼んでくれる。
「ごめんなさい」を日記に書いてくることもある。
「えらい」という言葉には「品行が立派」という意味がある。
私はこういうことがある度に、子どもは「えらい」と思う。

何も言わない子どもも、えらい。
色々言いたいこともあるだろうに、とりあえずはついてきてくれている。

自分が担任で、今日、子どもが教室にいてくれたら、それは有難いことである

そのことへの畏れと感謝は、何があっても忘れずにいたい。

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