2017年12月5日火曜日

若い時分の無駄は宝石の原石

結構よくされる質問。
「授業準備を毎日夜遅くまでしていたことがあるのですか?」
そう。
私は、初任から数年間、22時くらいまで一人で仕事をしていたというのが、ざらだった。
脅威的に、仕事が遅かった。
そして、信じられないほど、自由な時間があった。
(正確には、やることがなくて、暇だった。)

ここで大切なこと。
それは、地力を鍛えること。
最初からうまくいく方法を求めない。
いや、求めてもいいのだが、結果を期待しないことである。
泥臭くいく。
転ばないように自転車を上手にこげるようになろうなどと、甘すぎる考えは捨て去る。
捨て去るというより、そもそも考えてる暇があったら、さっさと乗って一回でも多く転ぶ。

これは精神論ではなく、算数と同じぐらい合理的な話である。
自分の力が足りないと思っている人は、改善の努力をし続けるから、伸びる。
自分の力が十分だと思っている人は、そのままの自分でいくから、変わらない。
これだけの話である。

要は、最初からうまくいくとは思ってない人は、一生懸命に準備をする。
100点を目指して一生懸命にやったのに、うまくいかない。
一生懸命にやった部分はわかっているのだから、直す部分がわかる。
そこを直す。
やはりうまくいかない。
今度は、違うところに気付く。
そこを直す。
この繰り返しになる。

最初からうまくやれると思っている人は、結果に落胆する。
自分はできるはずの人なのに、矛盾が起きる。
責任を他に求める。
あの方法がいけなかったのだ、あの人のせいだ。
それで、納得して矛盾を解消する。
次も、同じ失敗をするが、それも他人のせいである。
(万が一うまくいくこともあるが、それはより大きな不幸のはじまりである。)

一見無駄なことは、無駄ではない。
私は今はやらないが、ドリルの〇つけだって、全力でやってみることである。
〇つけが大変すぎてどうしようもなくなる時、初めて工夫が始まる。
授業研も、全力でやってみることである。
授業が下手すぎて全職員中最低ランクでどうしようもないとわかった時、初めて本当の勉強が始まる。
すべては、無駄と思える行為の集積からである。

例えるなら、若い自分の無駄なことは、石ころのようなものである。
実は、宝石の原石である可能性がある。
まずはたくさん拾って、ひたすら磨いてみることである。

実習生には、遠回りでも無駄だと思えるぐらい何でもがんばってみて欲しい。
それでこそ、実際に教員になった時に一人でも粘り強くやれる素地ができると思う。

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