2017年10月30日月曜日

字が下手な教師の苦悩

教育実習を通しての学びのシェア。

教育実習生はまだ学生だからといって、侮れない。
子どもが教師より優れている面が多々あるのと同様、教育実習生の方が優れている面もたくさんある。

例えば、体力。
多くの場合、ここはまず勝てまい。
若さに至っては、もはや「設定」の違いである。
例えば、字。
これはもう、完敗である。
ただでさえ勝てないのに、中にものすごいきれいな字を書く実習生がいる。
黒板の字が、芸術的ですらある。
完全に「参りました」という感じである。

ただ、当たり前だが、これは授業が優れているということとは、別の話である。
黒板の字がきれいなのである。
美しい文字の書き方はこの学生に教えられないが、他の面はたくさん教えることができる。

ここまでは、普通に考えるところである。

問題は、ついここを裏返しに考えてしまうことである。
「字はきれいだけど、授業はね。」というのは、オヤジな考え方である。
私は、字が下手だ。
でも、授業はできる。
だから、大丈夫。
この論理は、「論点のすり替え」というものである。
詐欺師の手法である。

「字が下手」と「大丈夫」には、論理的つながりはない。
「字が下手」と「授業に支障がある」は、論理的つながりがある。
字が下手だと、授業にマイナスの効果が働きやすい。
字がきれいな方が、いいに決まっているのである。

一方で「字がきれい」と「授業が上手い」も、論理的つながりはない。
「字がきれい」に「授業にプラスの影響がある」は、論理的つながりがある。
字がきれいな方が、見やすいし、見ていて気持ちがいいからである。
だから、教師にとって、字がきれいに越したことはない。
残念ながら、その点においては、どんなに論理を展開しても完敗である。

もしできないことの正当化をしだしたら、罪悪感をもっている証拠。
「字がきれいでも授業は別だからね」
と考え出したら、かなりコンプレックスを抱えている。
私はついそういう考えが頭をよぎってしまったので、自分自身に残念な思いがした。
しかし、このコンプレックスを抱えながら生きていくしかないのである。
(開き直ってないで改善する努力をしろという声が聞こえるが、本人としては百も承知である。)

私は字が下手だから、せめて少しでも内容的にましな授業をしよう。
そう思わされる、芸術的に字の上手い実習生からの学びだった。

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