教育と育成・養成の話の続き。
例えば学校や家庭で「こういう約束にしたはずです」と子どもに説教する場面がある。
子どもは、そんな約束をした覚えがあるまい。
こちらが勝手に都合で「〇〇しましょう」「この行事の目標は〇〇」と設定しているだけのことが結構ある。
その姿にこちらが「育成」したいだけであり、子どもの願いは置いてけぼりである。
子どもからすれば、本来「遠足の目標」など知ったことではない。
本当の願いは「友達と一緒に思いきり遊びたい」だけである。
だからといって「自由にさせればよい」ということではない。
ここが難しいのだが、子どもからすると思いきり遊んでいるだけのようで、実はこちらの願いも達成しているというのがベストである。
そうでなければ、わざわざ教育の場として設定する必要はなく、単に時間と場を与えて遊ばせればいいだけである。
同じ鬼ごっこでも体育の授業でやるものと休み時間にやるものは、やはりねらいが違うのである。
前者には教える側の願いがあるが、後者には子どもの願いしかない。
学校教育には「目指す姿」があるからこそ、わざわざ学校に来させて行っているのである。
この願いのギャップを埋めていくこと。
授業を考えていく上での基本中の基本である。
2017年10月26日木曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
0 件のコメント:
コメントを投稿