2017年10月28日土曜日

薫陶の教育

前号の続き。
教師と子どもの願いのギャップを埋めることが大切。

しかし、教える側の願いの方が強く出ざるを得ない場合もある。
例えば授業研究として行う場合は、ある程度仕方がない。
明らかにしたいことのために、その時の子どもに付き合ってもらうことになる。
願いが、教える側の方に強く明確にある。

ただ、それは言うなれば特殊状況であって、本来は子どもの願いが先にあって然るべき。
子どもの育ちたい方向に、どうすればうまく伸びるかを手助けする。
それが「理想的な」教育の姿である。

「理想的な」としたのにも意味がある。
理想的ではあるが、あまり現実的ではないのである。
子どもの側は、願いをもつ以前に、知らないことが多すぎるためである。
そして、本能的な願いのままだと、あまり社会的に望ましい方向に行かないことも多々あるためである。
そのままだと、「自然」に野放図に伸びるだけになってしまう。
何度も言っているが、野口芳宏先生の「教育とは自然のままにしておかないこと」とは、至言である。

例えば様々な体験は、親が連れ出すからこそできる。
何の前触れもなくいきなり「ダイビングがしたい」という子どもはいない。
海の底の美しい世界を知り、憧れる機会から、子どもの願いが始まる。
実際に行ってみて、「もっとやりたい」となり、それが場合によっては生涯の仕事や趣味になることもある。
そういった豊かな体験活動は学校教育では限界があり、家庭教育や社会教育が主に担う分野である。

例えば、電車のマナーは、教えないと身に付かない。
「騒ぐと周りの人が不快」など、幼い子どもに想像できる訳がない。
「閉まった踏切をくぐると危険」というのも、電車のルールを事前に知ってこそであり、勝手に覚えるのを待っていたら取返しがつかないことになる。
これらは、子どもの願いは関係なく、教える側が一方的に明確なねらいをもって教えるべきことである。

学校は、この種の集団社会としての教育がかなり多い(というより、大半である)。
それがいつの間にか教える側の願いが常に優先されやすい状況を生むようにも思う。
本来、学問は楽しむものであるのに、お互いに義務みたいになってしまうのは、こういう仕組みのせいもあるかもしれない。

ちなみに、「育成」「養成」の関連語として「薫陶(くんとう)」がある。
「香を焚いて薫りを染み込ませ、粘土を焼いて陶器を作る意から、
優れた人格によって子供や弟子に影響を与え、立派に教育すること。」
である。
松下幸之助氏の言う「主体変容・率先垂範」の重要性がよくわかる言葉である。
できれば、親も教師も「薫陶」を目指したいものである。

「共育」という言葉がある。
やはり、教える側も教わっていて、一緒に育つ。
教育は、いつでも互いの願いをすり合わせる行為なのかもしれない。

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