2017年8月24日木曜日

戦争と罪のない子どもたち

先週は北朝鮮がグアム沖にミサイルを撃つと宣言し、世界中が戦々恐々とした。
騒がれたXデーは保留となったが、全く安心できない。
それにしても、この日に、しかも広島の上空を通過させるとの宣言。
挑発的とか無礼とか非常識とかのレベルではない。
国際紛争において、正義や善悪、良心の類は全く通らないらしい。

そんな「暴君」でも、日本の隣国である。
ニュースを見ながら息子に「北朝鮮とだって、本当は仲良くできた方がいいんだよ」と話した。
「何で?」と聞かれた。
この「暴君」に対し、当然の疑問である。

そもそも、ミサイルを撃つぞと脅している「北朝鮮」とは誰なのか。
北朝鮮の国民の総意か。
そんな訳はない。
報道を見る限りだと、北朝鮮の国民は戦争賛美の「危ない人達」に見える。
しかし、以前お伝えした通り、「情報」とは「情の入った報せ」である。
(ブログ教師の寺子屋「風評被害と情報」
参照URL http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2011/05/blog-post_03.html
報道が、真実の姿を映し出しているとはいえない。

北朝鮮にだって、子どもたちや、我が子を愛する母親たちがいるのである。
そこにいるのは、我々と全く同じ人間である。
戦争をしたいなんて思う訳がない。
核爆弾を落として大量の人を殺したいなんて思う訳がない。
我が子と同じような幼い子どもたちが死ぬことを望むはずがない。
ただ、それを態度や口に出して言ってはいけない国策のもとに暮らしているだけである。
その辛さは、戦時に負け続けて強烈に統制されていた当時の日本国民と、きっと同じではないか。
与謝野晶子のように「戦争反対」と堂々と叫びたい考えの人たちが、たくさんいるはずである。

日本も北朝鮮もアメリカも、多くの国民の願いは「幸せ」である。
これ以外ない。
それは、世界中のどの子どもたちとも同じ願いである。

だから、我が子にも「〇〇人は〇〇」という偏った考えはもって欲しくない。
どの国の人だって、あくまで同じ願いをもった一人の人間なのである。
様々な国の人と協力して働くのが当たり前のこれからの時代、誰に対しても、同じ一人の人間として見るようになって欲しい。

私にも、海外の国々に関わる友人や知人、教え子たちがいる。
実際にどの国に行った時だって、それぞれ親切にしてくれた人がたくさんいた。
それを考える時、とてもではないが、その国の悪口を言ったり争ったりする気にはなれない。
一人一人を見れば、間違いなく同じ幸せを願う人間同士である。

その戦争は、本当は誰が望んでいるのか。
国の施策と、国民の真の願いは分けて考える必要がある。
いつでも、搾取されるのは国民。
とりわけ弱い立場の人間、すべての子どもたちである。

どんな理由であれ、戦争で人を殺したり、それをネタに憎んだり脅したりしていいことにはならない。
その国にも、罪のない子どもがいる。
過去や現在に負の歴史がある国の子どもでも、その子ども自身に罪はない。
子どもに歴史や国際理解を教える時には、そのことを忘れないよう伝えたい。

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