2022年10月22日土曜日

やれないからこそ、やってみる

 特別活動関係の学習会に出ると、学級会をやっていない学級が多いという話になる。

特別活動を勉強しようという人でもやっていないことが結構ある。


理由は色々である。

「時間がない」

「やり方がわからない」

「自分の学級ではできそうにない」

等々。


「時間がない」という場合、実は「やりたくない」というのが隠れた本音である。

この場合もやはり「できそうにない」からである。


同様に「○年生だからできない」「難しい子がいるからできない」もよくある。

1年生にそんな難しいことは無理という話である。

あるいは、これこれこういう子どもがいるから無理という話である。


人は、深層心理の無意識下で、理由をこじつける。

時間がないというために、他のやるべきことを利用する。

実行できないというために、その理由を探す。

そこには一面の正当性があるため、自分自身で納得しやすい。


結論、どんなことでも、まずはやってみないとできるようにはならない。

さらに、初めての状態からしばらくは、上手くできるはずがない。

あらゆることにおける、前提条件である。


学級会のような話合いは、やらないとできるようにならない。

クラス会議をするなら、手法を学ぶ必要もある。

しかしどんなに学んでいようが、初期の頃に話合いが成立しないという点では、スタート位置は同じである。


クラス会議を初めてやるための、導入の活動もある。

過去に書いた、一年生の最初の導入のための活動を紹介した記事もある。

参考:みんなの教育技術 「一年生一学期のクラス会議初期指導のコツ」



一年生の最初でうまくいかない、できないのは誰しも「当たり前」だという。

だから「やらない」となるが、これが勿体ない。

やればできるようになる。


話合いをやってきていなければ、六年生でもできない。

先にも述べたように、学級会をやっていない学級がかなりある。

つまり、これまでほぼ全くやっていない状態で育っている可能性が高い。

だからこそ、今目の前にいる子どもたちから、始めるのである。


話合いが自分たちだけでできるようになるには、段階がある。


まずは、やり方を知る段階。

こちらが手取り足取りして、基本的なルールや流れを教える。

議題もゲーム的な「結論がどうでもいい」ものでスタートする。


次は、こちらが司会でいいので、やってみる段階。

発言の順番が回ってきても「パス」や無言が続く。

「パス」を含め、意見表明したこと自体を認めながら進めていく。

ここでは、ほとんど何も決まらないがよしとする。


次に、司会を任せ始める段階。

司会もドキドキなので、助けてあげながら進めていく。

発言は「同じです」がよくが出るようになるので、他の人と同じでも自分で言うよう促していく。

この辺りで、合意形成へもっていくための意見の収束の仕方を教える。

「単純な多数決は少数派の意見を切り捨ててしまう」という危険性も教えていく。


慣れてきて、司会も黒板の書記も任せていく段階。

ある程度まで自分たちで進行できる。

時々、ルール違反(他の人の発言中に口をはさむ、最初のアイデア出しの途中で発言を否定する)が出るので、ここは正す。

自分達で進行できたこと自体を認めていく。


いよいよ、自分達だけでほぼ運営できる段階。

話合いや決定が学校ルールやモラルから逸脱しない限り、基本的に黙って見守る。


この自分達だけの段階へ、低学年であれば秋の終わり、高学年であれば夏休みぐらいまでと目安を決めて進めていく。

そのためには、できない状態からでもまず始めることである。


授業中における話合い活動も大切である。

普段の授業で聞いてるだけなのに、会議の時だけ全体の場で意見を言えるようになるというのは現実的でない。

ペアトークや班でのグループトークなどを頻繁に取り入れ、小規模の話合い活動に慣れるようにする。


何事も、やってみることと、慣れである。

最初から上手くできることはない。

また、始めるのに最適なタイミングは、いつでも今である。


なぜこういうことを書いたかというと、これが教師の仕事がしんどいことと、無関係でないからである。

無関係でないどころか、根本的原因と言ってもいい。


学校は、子どもが自分で生きていくための力をつける場である。

子ども自身でやればできることは、子ども自身がやって力をつけるに限る。

それを教える立場の人間が代わりにやってしまっては、子どもの学ぶ機会、成長の機会を奪う。


しかも、やる方は大変である。

35人が一つずつやるのと、一人の人間が35人分の作業をやるのを比較すれば、明確である。

学校におけるあらゆる学習活動は、子ども自身がやることである。

教える立場の人間は、子ども自身ではできない、気付けない、知り得ないことを示すまでである。


だから、低学年から高学年にかけて、親や教師に「○○して欲しい」の需要がなくなっていくのが自然な姿である。

一方で「自分(たち)で○○したい」が増えていくのが望ましい成長の姿である。


やってあげるのではなく、まず、やってみること、挑戦を促す。

子どもたちの成長に必要なのは、手取り足取り寄り添うのではなく、一見不親切な教育である。

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