2021年10月2日土曜日

「誰誰が悪い」は思考停止スイッチ

ここでは結構些細なこと、どうでもいいようなことを真剣に取り上げてきている。


例えば前回取り上げた、昭和から変わらない宿題のことなど、本当に小さなことである。

小さなことだから、まあ仕方ないと思って、みんな我慢してやる。

わざわざ目くじら立てるほどのことではないからである。


こういうことが学校の日常に溢れている。

子どももそうだが、大人もそうである。


選択肢と意思決定の場面がないのである。

色々なことが「やる」「そういうもの」と決まっている。

そこで、「変えたい」「違う選択をしたい」と申し出るとする。


「今年は決まってるから無理」

「周りもそうしてるから無理」

「上の許可がないから無理」

「前例がないから無理」


これが毎年続く。

自分には選択する力も権利もないと、長く勤めるほど、骨の髄まで思い知らされていく。


これを日常的に繰り返しているとどうなるか。

くだらなくないようなこと、重要なことでも、言われるがままに従うようになってしまう。

変えられることでも、変えようとしなくなってしまう。

理不尽な要求も黙ってのむようになる。

使う側にとって最も都合のいい労働者の出来上がりである。


イエスセット話法という心理学ベースのセールス手法がある。


簡単に「イエス」と答えられるような質問を先に何度も繰り返す。

すると重要な決定、本題であるセールスにもイエスと答えやすくなるというものである。

超単純化するとそういう手法である。

これが、意外にも効果てきめんなのである。


「一貫性の原理」という心理法則も働く。

それまでイエスを繰り返してきたことに対しては、イエスと言わざるを得なくなるというものである。

「動物が好き」という返答を繰り返した後だと「動物愛護の募金」でお金を出す確率が跳ね上がるというものである。


つまり、日常的にごく小さな「たたかい」に連敗していると、負け癖がつく。

言いなりになりやすくなり、逆らえなくなる。

もっと言うと、言いなりになっていることにすら気付かなくなる。

そして言いなりなのだから、何か悪いことがあれば、自分ではない上の人の責任である。


これが、教育において起き続ける。

そしてその教育を受けた子どもたちが今の大人になっている。


カエルがぬるま湯に入っている。

下で火を焚いて、だんだんと温度を上げ、いつの間にか熱湯にしていく。

最初から熱ければすぐに出て逃げるのに、この場合だと熱いと気付く前に茹で上がって死んでしまうというあれである。

感性と感覚が慣れて鈍ることの恐ろしさである。


普段から自分を小さな理不尽に従わせていると、子どももそうなる。


「もっと自分から動いて」

「どうして意見を言わないの」

「黙ってないで何か言いましょう」

「言いたいことを言っていいんだよ」

「自分たちで考えて決めて実行してみよう」


この言葉を見て、誰向けの言葉と感じるか。

全ては、大人に向けてである。

学校でも社会でも政治についてでも何でもいい。

これらは、全て大人社会の問題である。


子どもに向けてこれを言うとしたら、先に自分たちがそういう生き方をしている必要がある。

これらは、日常の全てで行うことであり、特定の何かの時にだけそれを求めても無理である。


普段から、小さな選択を繰り返し経験することである。

「自分で変えられる」

「自分で決められる」

そして「自分で責任をとる」

という経験をいかに私たちが積めるかである。


自分が今、理不尽だと思って従っていることはないか。

例えば今は感染症対策やGIGAスクール構想などで、教育現場は大混乱中である。


そういう中で

「仕方ない」

と呟いていないか。

「○○ができないのは上や自治体がそうしないから」

と言っているとしたら、先の状態に飼いならされている。

「○○大臣が悪い」とさえ言えば、全ての問題が自分の手を離れる。

他人のせいにするのは、思考停止スイッチである。


よく考え直すと、自分にできることがあるはずである。

自分の立場でしかわからないこともあるはずである。

みんなが不満に思っていることなら、声を集めれば変わることがある。

それこそが民主主義の本質である。


混乱の中にこそ、変革のチャンスはある。

今の「せざるを得ない」状況をチャンスに変えていきたい。

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