2021年9月26日日曜日

アサーティブに声を上げる

 ちょうど一月前、人権宣言記念日に発行した記事。


1789年8月26日に、フランスの憲法制定国民議会が「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を採択したことによる。


ここに関連して、前号の続きでもあるが、正当な声を上げることについて。


人権は、権力者によって簡単に蹂躙される。

自ら守らねば、気付かない内に奪われる。

特に弱い立場にあるのならば、力を合わせて自分たちで守るべきものである。


勤労の権利・義務というのがある。

生存権的基本権の一つである。

「勤労の権利」(第27条),「労働基本権」(第28条)と憲法で定められている。

この憲法に沿って、労働基準法が定められている。


働き方改革の推進が叫ばれているが、変えてくれるのを受け身で待っていてもだめである。

今の現状に対して不満があるのなら、自ら声を上げ行動を起こさない限り変わらない。


ただこのエネルギーが、今の社会では違うところに向いているようにも思える。

関係のない人に八つ当たりしてもだめである。

誰に何を言えばいいのか、そこは頭を使う必要がある。


仕事の面で考えてみる。

現状の仕事に不満があるか。

その発生源はどこか。

突き止めて、そこにテコ入れしていく。


他に原因があるようで、実は自分自身の行動で改善できるものもある。

例えば「仕事が終わらない」は、必須業務量が多いというより、単に余計な仕事を自分で作って潰れていることも多々ある。

(学校現場だと、私はドリルの○つけや、子どもへの懇切丁寧なお世話をよく例に出す。)

その場合は管理職に業務体系を訴えかける前に、自分のやり方を変える方が先である。


しかし、そうでないものならば、きちんと訴えかける必要がある。

単なる愚痴や文句と、正当な要求は別である。


学校勤務でいうと、(Facebook上でも話題にしたが)例えばプール管理である。

その業務内容が妥当なものになっているかは再検討が必要である。


例えば、体育主任がフィルター掃除から水質維持から全てを管理をしているとする。

その膨大な業務量に対して、適切なサポートがあるかどうかである。


基本的に公立校では残業代は出ない。

だとしたら、何か他の業務負担を軽くする手立てが打たれているはずである。


さらに、プールの水へのチェックには、本来管理職も関わる必要がある。

膨大な上水道代や下水道代(=税金)がかかっているためである。

個人で負担できる重さではない。


これはあくまで一例である。

学校には、一部の人が「慣例」でサービスしていると思われる仕事がかなりある。

きちんとどこかで声を上げないと、陰で泣く人が未来永劫延々と出続ける。

「自分が気に入らないから」ではなく、苦しむ人を助けるために声を上げるべきである。


箱の外側にある時代が変わったのに、箱の中身が全く変わっていない。

「慣例」で過剰サービスしていたものにまず目を向ける。

管理職や年配の人の「俺も若い頃耐えた」という類のものは、今見るとおかしなものが大多数である。


危ないキーワードは「上が言うから」「今までそうだったから」「仕方ない」である。

思考停止まっしぐらの危険フレーズである。


我々が「私たちの子どもの頃もそうだったから仕方ない」という類のものがある。

これらも子どもたちにとっては、同様に理不尽なものである可能性が高い。


今子どもに教育していることの中で、自分も過去にやった、やられたことだからいい、という道理はない。

今自分自身がやっていることが変ではないかという、チェック対象である。


「アサーティブ」に声を上げることを当たり前にしていくことが必要である。

アサーティブとは、相手の願いや考えも尊重しながら、自分の主張を伝える態度である。

お互いの幸せを願って行うものである。


黙っていては変わらない。

自分の周りの人たちや後の人たちのために、声を上げ行動に変えていきたい。

それが結局、何よりも自分のためにかえってくると考える次第である。

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