ちょうど一月前、人権宣言記念日に発行した記事。
1789年8月26日に、フランスの憲法制定国民議会が「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を採択したことによる。
ここに関連して、前号の続きでもあるが、正当な声を上げることについて。
人権は、権力者によって簡単に蹂躙される。
自ら守らねば、気付かない内に奪われる。
特に弱い立場にあるのならば、力を合わせて自分たちで守るべきものである。
勤労の権利・義務というのがある。
生存権的基本権の一つである。
「勤労の権利」(第27条),「労働基本権」(第28条)と憲法で定められている。
この憲法に沿って、労働基準法が定められている。
働き方改革の推進が叫ばれているが、変えてくれるのを受け身で待っていてもだめである。
今の現状に対して不満があるのなら、自ら声を上げ行動を起こさない限り変わらない。
ただこのエネルギーが、今の社会では違うところに向いているようにも思える。
関係のない人に八つ当たりしてもだめである。
誰に何を言えばいいのか、そこは頭を使う必要がある。
仕事の面で考えてみる。
現状の仕事に不満があるか。
その発生源はどこか。
突き止めて、そこにテコ入れしていく。
他に原因があるようで、実は自分自身の行動で改善できるものもある。
例えば「仕事が終わらない」は、必須業務量が多いというより、単に余計な仕事を自分で作って潰れていることも多々ある。
(学校現場だと、私はドリルの○つけや、子どもへの懇切丁寧なお世話をよく例に出す。)
その場合は管理職に業務体系を訴えかける前に、自分のやり方を変える方が先である。
しかし、そうでないものならば、きちんと訴えかける必要がある。
単なる愚痴や文句と、正当な要求は別である。
学校勤務でいうと、(Facebook上でも話題にしたが)例えばプール管理である。
その業務内容が妥当なものになっているかは再検討が必要である。
例えば、体育主任がフィルター掃除から水質維持から全てを管理をしているとする。
その膨大な業務量に対して、適切なサポートがあるかどうかである。
基本的に公立校では残業代は出ない。
だとしたら、何か他の業務負担を軽くする手立てが打たれているはずである。
さらに、プールの水へのチェックには、本来管理職も関わる必要がある。
膨大な上水道代や下水道代(=税金)がかかっているためである。
個人で負担できる重さではない。
これはあくまで一例である。
学校には、一部の人が「慣例」でサービスしていると思われる仕事がかなりある。
きちんとどこかで声を上げないと、陰で泣く人が未来永劫延々と出続ける。
「自分が気に入らないから」ではなく、苦しむ人を助けるために声を上げるべきである。
箱の外側にある時代が変わったのに、箱の中身が全く変わっていない。
「慣例」で過剰サービスしていたものにまず目を向ける。
管理職や年配の人の「俺も若い頃耐えた」という類のものは、今見るとおかしなものが大多数である。
危ないキーワードは「上が言うから」「今までそうだったから」「仕方ない」である。
思考停止まっしぐらの危険フレーズである。
我々が「私たちの子どもの頃もそうだったから仕方ない」という類のものがある。
これらも子どもたちにとっては、同様に理不尽なものである可能性が高い。
今子どもに教育していることの中で、自分も過去にやった、やられたことだからいい、という道理はない。
今自分自身がやっていることが変ではないかという、チェック対象である。
「アサーティブ」に声を上げることを当たり前にしていくことが必要である。
アサーティブとは、相手の願いや考えも尊重しながら、自分の主張を伝える態度である。
お互いの幸せを願って行うものである。
黙っていては変わらない。
自分の周りの人たちや後の人たちのために、声を上げ行動に変えていきたい。
それが結局、何よりも自分のためにかえってくると考える次第である。
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