2021年9月28日火曜日

「自分さえ我慢すればいい」を排す

次の記事から。


プレジデントオンライン 

「休まないのがいいことだ」という価値観がコロナ収束を遅らせる

日本大学文理学部教授  末冨 芳

https://president.jp/articles/-/49311?page=4


この記事の中で同調圧力と部分最適について書かれている。

全く同感である。

「休む」とか「在宅勤務」を全体最適として捉えるべき時代にきている。


私も以前より、しんどい時には休むことを奨励してきた。

何度か紹介しているが、拙著の表紙のこの人の状態にならないことである。



「休む」という行為は、短期的に見てマイナスに見える。

その時の業務が進まない、授業が受けられないからである。

周囲に負担がかかるとか、作業が滞るとか色々ある。

この意識により「辛い時でも休まず無理してがんばるべき」という同調圧力が強まる。


しかし長期的に見れば、休むことは全体にとってプラスとなる。

仲間に対しても寛容になれるし、辛い時に辛いと言える環境ができるからである。

助け合いと寛容の空気が醸成される。


病気の時や都合が悪い時に

「休まないのが当たり前」か「休むのが当たり前」

かの違いは大きい。


今必要なのは、当たり前の見直しである。

例えば「通勤しないと仕事ができない「登校しないと勉強できない」というのは、一昔前の当たり前である。

今は、オンライン環境が整ったのだから、それ社会にとっての当たり前ではない。

(しかしながら、先の記事にもあったように、同調圧力もありなかなか進まない。)


働き方や学び方含め、多様性への当たり前に対して寛容な人たちと、そうでない人たちの分断が進んでいる。

これは、恐らく環境の影響が最も大きい。

多様性を当たり前とする環境か、そうでない前近代的な環境にいるかで、同じ人でも恐らく180度変わる。


学校現場で多様性への受容が進まない問題の根本の一つが、先の同調圧力と関連して自己犠牲の精神である。


「自分さえ我慢すればいい」


この精神は、一見いいもののようで、なかなか厄介である。

「自分さえ我慢」するということは、他の同様な場面では他人にも同じ行為を求めるようになる。

「お前も我慢しろ、がんばれ」「自分と同じように我慢しないのはずるい」という感覚が生じる。


多様性への不寛容になり、周囲への無言の同調圧力となる。

自分が我慢したことは、無意識に他人に不寛容になる。


幼少期に「お兄ちゃんなんだから」と我慢を強いられた上の子。

我慢しないで許される下の子に対してもやもやとした感情を抱く。

社会に出てからも他人に対するその意識は続く。


食事を残さないことを厳しくしつけられ、我慢してでも食べさせられた人。

他者が平気で食事を残すことに対して怒りの感情が湧く。


新人はそういうもんだと理不尽なことを無理矢理やらされた人。

自分が上になったら新人にそうさせようとする。

将来的には上に行けば行くほど厄介な「エラい人」になる。


本当は都合が悪いことを「やっておいてね」と言われるのでいつも笑顔で受けてしまう人。

それをしない人、うまくやっている人に心の底、無意識下で恨みを抱く。

(この「(都合)いい人」タイプは自己表現できないことが多く、表面化しないのが逆に怖い。)


基本的に、我慢は毒である。

仕方のない状態に「耐え忍ぶ」という忍耐とは全く別で、我慢には「我」に「慢」の気持ちがある。

おごりたかぶり、他を軽んずる心、怠けの心と同様である。

我慢するだけで、改善しようという意志がないのである。


この「自分さえ我慢すればいい」を排していくことが、当たり前の改革に必要になる。

みんなにまで我慢させないことを考えれば、そのまま自分が我慢でいいはずがないのである。


「無理しないで休む」はそのほんの一例である。

自分から無理せず率先して休んで、みんなが無理なく休めるのを当たり前にするといい。


理不尽な我慢をしない、させない。

何事も、まずは自分発で進めていきたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング