2021年9月1日水曜日

研究ではなく修養を

 学習会での学び。

教育界における素晴らしい先達の方々に学べる貴重な機会を頂いた。


どの先達も述べていたのは、主体変容の大切さである。


「問題の子どもはいない。

問題の大人がいるだけ。」


という言葉が紹介されていたが、その通りである。

要するに、問題はこちら次第である。


しかし現実問題として、それがわかっているのに解決できていないことが多々ある。

なぜなのか。


ここと関連して、学校が研究ばかりしている、という点も問題にあげられた。

これは師の野口芳宏先生からの問題提起で、過去私も何度も紹介していることだが、次の点である。


・学校は、他者改善である「研究」に注力するばかりで、自分を磨き高める「修養」がない。


「研究主任」はいても「修養主任」はいないという学校の現実である。

つまり、子どもをどうにかしようとする努力はしても、自分を変えようという努力の方向にいかないということである。


考えてみれば、当たり前である。

自分を否定するのは苦しい。

他人を否定する方がずっと楽である。


教師の立場からすれば、

「子どもが悪い」

「親が悪い」

と言っていれば、とりあえず自分は傷つかないで済む。

(「同僚が悪い」「管理職が悪い」の手も使える。)


逆の立場でも成り立つ。


親の立場からすれば

「担任が悪い」

「学校が悪い」

と言っておけば、とりあえず自分の責任の範疇ではなくなる。

子育てが云々と周囲に責められないで済む。


子どもでも成り立つ。

「先生が悪い」

「親が悪い」

と言えば、自分を守ることができるし、すべき努力もしないで済む。(これは時に必要でもある。)

あとは「友達が悪い」も使える。


・・・全て非生産的である。

他者改善を求めることで、自己改善から逃れている。

問題の根本的解決につながらないどころか、どんどん遠ざかる。


相手を変えようとするのではなく、自分の在り方を変える方が先である。

それによって、相手が変わることがある「かもしれない」という程度である。


これも野口芳宏先生の言葉だが

「教育の究極は、感化・影響である。」

今回、これに「薫染」(くんせん)という言葉も使われていた。


要するに、どんなに「教え方」を研究しても、結局は相手から剥がれ落ちるだけである。

本人の内側からの変容がない限り、血肉化しない。

あらゆる教育方法論の弱点は、それを用いる、あるいは用いられる人間の人格の違いを想定できないところである。


今、オリンピック・パラリンピック選手が大活躍しているが、人生の中で誰かに感化・影響を受けてきたと語る選手は多い。

それは親であったり教師であったりコーチであったりライバルであったり子どもの頃に見た憧れの選手であったりと様々である。

とにかく「この方法で世界に通用する選手になれる!」はなさそうである。

オリパラ出場とて、周囲の支えはもちろんあったにせよ、最終的には本人の自己錬磨の賜物と思われる。


自分自身を磨くこと。

ダメな自分や嫌いな自分、できていない自分にも向き合うこと。


一番辛い作業になるが、一番必要なことはここにしかないと感じた次第である。

この夏休みも、オンラインを中心に様々な勉強会が催されてきた。

ハウツーではなく修養につながるものをこれからも求めていきたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング