物事は表裏一体である。
表に見えて出しているものの裏側を本音と見ると、見えるものが変わる。
国語の教材で「お手紙」という物語がある。
アーノルド・ローベルの有名な作品である。
がまくんはお手紙を「どうせこない」と言って拗ねている。
親友のかえるくんがどんなに「くるよ」と言っても頑なに否定する。
欲しくてたまらないという本心が裏側にあるからこそ、来ないという否定の言葉を強く表現する。
イソップの「酸っぱいぶどう」というお話と同じである。
木に登れないきつねは「あんなぶどうはいらないよ。どうせ酸っぱいんだから」と言う。
ニーチェの言う「ルサンチマン」(やっかみ)の心理である。
子どもの「問題行動」もこういう角度で見る必要がある。
表面的に見えている言動は、あくまでも表側である。
「どうせ私なんか」と言っている子どもは、誰よりも強く自分の価値への肯定を裏側で求めている。
いじめをする子どもは、誰よりも心身の安全・安心を求めている。
どちらの行為も、自分自身に価値を感じていて、生活が真に平和ならやらないことである。
もっと自由が欲しいと口にする場合、本当は現状のルールに安住している可能性がある。
もしその自由をポンと与えられると、うろたえるかもしれない。
子どもの言動も、表面的にそのまま見ない方がいい。
素直に見るということが表面的理解に留まるようだと、本質を見誤る。
「大嫌い」は好きの裏返し、あるいは自分自身が無意識化で直したいと思っている点の心理の表面化である。
大嫌いな人がいたら、それはどこか自分と似ている人という正視したくない事実が隠れていることが多い。
できないことを「やりたくない」は、「できるようになりたい」の裏返しのこともある。
(本当に興味がないこともあるので、見極めが必要ではある。)
表に出ている現象の裏側に本質があると見る。
ものの見方の一つである。
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