学級づくり修養会、HOPEでの学びのシェア。
この会では、参加者が各々問をもってくる。
それに対して考えていくというスタイルである。
まずこの問をもつということが全てである。
問さえはっきりすれば、半分は既に問題解決したも同然である。
問が見つからないということが、最も大きな問題であり、難問だからである。
参加者の中から
「自由研究の仮設を立てられない子どもがいて、どう指導したらよいか」
という問が出た。
まさに、「問がもてない」ということそのものである。
(ちなみに、総合的な学習の時間の探究学習のように、子どもが各自テーマを決めて年間通して研究するらしい。)
この問いに対する回答は
「そのことについて知らないから、問が出ない」
である。
例えば、ある子どもがサッカーをテーマに研究したいとする。
そうなると、サッカーのことを深く知らないと問は出てこない。
知ろうとすることで、初めて知らないことが出てくるからである。
逆説的だが、これが真実である。
サッカーのルールすら知らない人であれば「オフサイド」について問をもつことはない。
そもそもその用語自体を知らないだろうから、そうだとしたら100%そこに問をもつ可能性はない。
多分、「スローイン」を両手で投げねばならない理由も、スローインだとオフサイドにならない理由を考えることもない。
知らないから当然である。
オフサイドを少し知っていれば
「なぜラインはキーパー以外の一番後ろのプレーヤーに合わせて動くのか」
「キーパーは一人にカウントしないのか」
「キーパーが他の選手たちより前に出ていた場合はどうなるのか」
等々、問が生まれる。
(実際オフサイドは、キーパーどうこうというより「後ろから2番目の選手」の位置がそのラインである。)
多分、この数行のくどい解説も、知らない、興味ない人にはさっぱり意味がわからないはずである。
つまり、知らない、興味のないことに対し、確実に問は生まれない。
一方で、先に書いたように、知れば知るほど「知らないこと」が増え、疑問は生まれる。
正確には、「あれども見えず」の未見の部分がどんどん顕在化していくという状態である。
例えば、私は大学生の頃、小学校の授業についてはある程度知っているつもりだった。
教員3年目ぐらいには、「大学生の頃は青かったなぁ」とまあ大体知っていると思うようになった。
10年経つ頃には、見たこともないような授業の方法があるなど、全然知らないことの方が圧倒的に多いことがわかってきた。
さらに20年経つ頃には
「旧い方法も果てしなく深くあるのに、一方で常に新しい方法が生まれ続けている」
ということを知り、永遠に全てを知ることができないと考えるようになってきた。
知れば知るほど、知らないと認識できる領域の側の割合が高まっていくということである。
最初の問いに戻るが、要はそこである。
まず徹底的に知ろうとすること。
そうすれば、自ずから問は生まれる。
逆に、大した興味のないことに問が生まれることはない。
これは、私たちが何かしらの研究や提案をする際にも同じことが言える。
まずはそれについて知ること。
そこが全てである。
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