2015年12月19日土曜日

道徳 登場人物の立派な行動をどうみるか

先日の下関における道徳研究会での学んだことのシェア。
そのままではなく、自分なりに解釈したことを書く。

読み物資料には、立派な人物が出てくる。

自分の命を省みずに弱いものを助けようとする人。
誰もが投げ出すような辛い作業を、成功するまで地道に続けられる人。
人に裏切られてひどいことをされても、なお大きな愛で優しさを与えられる人。

架空の人物のことも実在の人物のこともあるが、とにかく立派である。

これを「この人のようにしましょう、なりましょう」となると、無理が生じる。

大方の場合、まず教える側がこのような人物になり得ていない。
何度も例に出すが、イチローと同様の努力ができるなら、イチローになり得る。
そもそもその努力ができること自体が天才的である。
だから「イチローみたいに努力をすれば夢が叶う」と短絡的にいくと、危険である。
希望を持たせるのにはいいかもしれないが、自分の現実とのギャップに苦しむことになりかねない。
「努力しないとダメなのに、努力できない自分はダメだ」となり得る。

この辺りは、ある程度乖離して考える必要がある。

講師の先生の話だが「これはこういう人物」と割り切る。
こういう人物だから、こうやったし、こういうことが起きたということを、客観的にみる。
なぜこういう行動をとったのかを、客観的にみる。

この話を次のように解釈した。
時に、「自分だったらどうするか」を考えるのはいい。
しかし、模範的回答を期待すると「ヨイコの答え」を言い合うつまらない授業になる。
だから、その物語を読んで、その行動の価値を見出すことが大切である。

それが自分にできるかどうかはわからない。
ただ、そういうことには価値があるということは学べる。
自分が同じ状況になった時にそうするかどうかは、別次元の話である。

内容にもよるが、そのように解釈した方が、納得がいく。
「できない自分はダメ」というようにしては、自尊心を低くすることになる。
純粋に「すごい人物だなぁ」「感動した」で、いい場合もある。

教える側も、未だ不完全。
人間は完璧にはなり得ない。
それでも、より良い生き方を求めて生きる。
そういう姿勢が身につけばいいのではないかと思った次第である。

共感と勘違い

「インクルーシブ教育」に関連した話。 最近、刺さった本。 『跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること』 東田 直樹 著 イースト・プレス (2014/9/5) http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=21...

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