先日の下関における道徳研究会での学んだことのシェア。
そのままではなく、自分なりに解釈したことを書く。
読み物資料には、立派な人物が出てくる。
自分の命を省みずに弱いものを助けようとする人。
誰もが投げ出すような辛い作業を、成功するまで地道に続けられる人。
人に裏切られてひどいことをされても、なお大きな愛で優しさを与えられる人。
架空の人物のことも実在の人物のこともあるが、とにかく立派である。
これを「この人のようにしましょう、なりましょう」となると、無理が生じる。
大方の場合、まず教える側がこのような人物になり得ていない。
何度も例に出すが、イチローと同様の努力ができるなら、イチローになり得る。
そもそもその努力ができること自体が天才的である。
だから「イチローみたいに努力をすれば夢が叶う」と短絡的にいくと、危険である。
希望を持たせるのにはいいかもしれないが、自分の現実とのギャップに苦しむことになりかねない。
「努力しないとダメなのに、努力できない自分はダメだ」となり得る。
この辺りは、ある程度乖離して考える必要がある。
講師の先生の話だが「これはこういう人物」と割り切る。
こういう人物だから、こうやったし、こういうことが起きたということを、客観的にみる。
なぜこういう行動をとったのかを、客観的にみる。
この話を次のように解釈した。
時に、「自分だったらどうするか」を考えるのはいい。
しかし、模範的回答を期待すると「ヨイコの答え」を言い合うつまらない授業になる。
だから、その物語を読んで、その行動の価値を見出すことが大切である。
それが自分にできるかどうかはわからない。
ただ、そういうことには価値があるということは学べる。
自分が同じ状況になった時にそうするかどうかは、別次元の話である。
内容にもよるが、そのように解釈した方が、納得がいく。
「できない自分はダメ」というようにしては、自尊心を低くすることになる。
純粋に「すごい人物だなぁ」「感動した」で、いい場合もある。
教える側も、未だ不完全。
人間は完璧にはなり得ない。
それでも、より良い生き方を求めて生きる。
そういう姿勢が身につけばいいのではないかと思った次第である。
2015年12月19日土曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
実習生にした話。 AとBで迷った時はどうするか。 AとB、それぞれのメリットとデメリットを羅列する。 メリットが多く、デメリットが少ない方を選ぶ。 その際、「安全」にデメリットがある場合、これは最優先で取り除く。 体育の授業における例としては ・帽子を被らせるか否...
-
若い先生方、あるいは教育実習生からなどでもよく聞くのが「叱れない」「注意できない」という悩みである。 子どもとの関係性が壊れるのが怖いのである。 ここについて述べる。 まず、叱るという行為だが、これは基本的には人間関係ができてからでないと、本来の正しい効果を期待できない。 叱る...



0 件のコメント:
コメントを投稿