子どもたちに何度も聞かせている話。
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来。
しかしながら、他人の行動を変える方法が実際にはある。
他人の行動を変える方法。
それは、褒美と罰。
称賛と恐怖。
アメとムチである。
その方法をとれば、確実に行動は変わる。
ただし、行動が変わっただけで、中身は変わっていない。
褒美の身近な例が、お金の為だけにやる仕事。
時給が高いからやるというのがその典型である。
自分にとって合わなくとも、嫌できつい仕事でもやる。
高給という褒美がつくためである。
罰の身近な例でいくと、交通ルール。
最近、自転車の罰則が厳しくなった。
罰金をどんどん取られるとなれば、交通違反をしなくなる。
ただそれは、すすんで交通ルールを守ろうとしているのではなく、罰金が嫌だからそうするだけである。
中身や価値観、考え方は変わっていない。
学級においては、なるべくこの方法をとらないことを心がける。
褒美による統治は、要望が段々高くなって、与えられなくなった時に破綻する。
罰則による統治は、不満をためる。
その不満が、本人の中身をマイナスにする。
成長するはずが、退化する。
教育の場で退化させては意味がない。
では、なぜ指導者からみた望ましい行動を進んでとってくれないのか。
その行動に価値を感じていないからである。
価値を感じていたり、それをしないと気持ち悪いという状態なら、進んでやる。
価値付け、意味付けが肝である。
掃除をやらないと気持ち悪いという子どもがいる。
掃除の気持ち良さを肌で感じている子どもである。
掃除をやるのが面倒だという子どもがいる。
掃除を単なる作業と捉えている子どもである。
ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる。
鍵山秀三郎氏の言であるが、名言だと思う。
そこに価値を感じると、拾いたくなる。
価値を感じないと、拾わない。
ただそれだけのことである。
そこは、強制も矯正もできない。
個人の判断である。
価値ある判断の基準。
ものさしを提示する。
感動は、その手助けをする。
本物に触れると変わるというのも、これである。
ただ、ここも示せるというだけで、実際に選ぶのは本人である。
子どもたちに、少しでも価値ある判断基準を示せるようにしたい。



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