2015年9月27日日曜日

目で聞き、耳で見る。

タイトルは、次の本から見つけた言葉の引用。

『道遠し』毛涯章平著

この本で書かれている言葉を引用する。
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(引用開始)
思うに教育の営みは基本的な秩序や規律が必要である。
また当然なすべき課題は、厳しくそして周到に用意され、確実に実現されることを願いとする。
しかもその中にあって、教師は個々を深く見つめ、寄りそい、目で聞き耳で見る注意深さとゆとりをもって、
時には「前禽を失う」べく臨機応変の粋な計らいが生まれることを私は期待し、
それは教師の絶えざる精進から自然に発することを信じたい。
(引用終了 メルマガの読みやすさの都合上、一部こちらで改行)
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以下、私見。

「目で聞き、耳で見る」とは、一見すると奇怪な言葉である。
「目で見て、耳で聞く」はずである。
しかし、教師の仕事をしている人には、感覚的にわかるのではないかと思う。

要は、本質を見抜くということである。
一見、または一聞して、そのまま表面的に受け取らないということである。

例えばこの本の中では、次のような実例への対応が挙げられている。
あまり出来映えのよくない夏休みの作品への評価。
校長室の前の廊下をものすごい勢いで走っていく子ども。
中学の遠足で持ってきてはいけないお金を持ってきた子ども。

どれも、秩序や規律の面で見たら、だめなことである。
しかし、それぞれ、次のような面が見えると、捉え方も変わる。

多くの子どもが親に手伝ってもらっている中で、完全に自力でやってきた。
低学年で風邪をこじらせ、長期の入院を経てやっと退院したばかり。
祖母に、お守りを買ってきて欲しいと頼まれた。

それでも、規則は規則、だめなものはだめと切り捨てることもできる。
しかし、それではあまりにも「お役所仕事」すぎる。
一人の生身の人間を相手にするには、表面的な捉えでは対応できない。
相手の事情を慮って、「粋な計らい」の対応をすることだって、時にはある。

余裕がない時ほど、表面的な行動で相手を捉えてしまいやすい。
「嫌い」と言われれば、「失礼な」と腹を立てて叱ったり、黙って自分が傷ついたりする。
だらけていたら「やる気がない」とみなし、発破をかける。
「もうだめ」と言ってきたら「がんばれ」と励ます。

どれも、いいかもしれないが、良くないかもしれない対応である。
難しいのは、表面の行為と中身とが一致している場合と、そうでない場合が混在することである。
「こうすれば誰にでも絶対うまくいく!正解!」という対応法は、存在しない。
五感をフルに働かせて、真意を見抜く。
それが「目で聞いて、耳で見る」ということなのではないかと解釈した次第である。

オレオレ病

作家であり心理学者でもある、早稲田大学名誉教授の加藤諦三先生の言葉。 ================ 他人のために何かをしてあげれば、 大抵の自分の悩みはたちどころに消える。 ================ 大学生の頃、教育心理学を専攻していたこともあり、加藤諦三先...

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