先日8月6日は広島の原爆忌、今日9日は長崎である。
毎年、世界からここでのスピーチが着目される。
ある「正義」の立場に立脚して考える。
すると「仕方なかった」となり、正当化になる。
国際社会での交渉の常套手段である。
何に「正義」を置くかで、物事の見え方は変わる。
戦争も、どちらの国に、どこに「正義」を置くかである。
「世界中の戦争を終わらせる」に「正義」を置くと、それを妨害するものは攻撃しても正しい行為となる。
「自分の国を守る」に「正義」を置くと、自国を守るための攻撃は正しい行為となる。
個人レベルに落とし込むと「家族を守るため」が第一義となることもある。
さらに個人にすると「自分の命を守るため」には手段を選ばなくなる。
以前にも紹介した「貧しいなら豊かな人間から盗んでもいい」という理論である。
要は、本当の意味の正義などというものは存在しない。
あるのは、他の犠牲を前提とした各々の「正義」である。
「セイギ」を繰り返すと「ギセイ」になるという関係である。
(これはある歌の歌詞にあった表現だが、言い得て妙である。)
学校教育にもこれは言える。
戦争中、国民教育としてセイギを教え唱え、国内外に多くの犠牲を生んだのである。
これは、日本に限らず、戦争に加担した全ての国も同じである。
これは、現代にも当てはまる。
学校においては、セイギがある。
例えば文科省や教育委員会から降りてきた命令はセイギである。
学校職員はこれに従うことが前提として働いているのだから、論理的に必然である。
さて、問題はその出処が、つまり上の機関において、何を「正義」としているかである。
そこから出るセイギが、末端の人間にとって、犠牲となっている可能性がある。
「○○調査における学力向上」
「教員の資質向上」
などがセイギとして掲げられていることが往々にしてある。
一見正しいが、あくまでこれもセイギである。
教員の資質向上ができたらいいということに反論はない。
しかしそれがどこから来たのかである。
学校現場は、問題が山積している。
そして、人手不足で大変である。
そこから
「問題教員がいるからだ」
「即戦力の教員が必要なのだ」
という発想になったと考えるのが妥当である。
しかし現場の大変さの根本は、一部の「問題教員」のせいでも新規採用者の資質の低さのせいでもない。
(この「問題教員」という言い方は好きではない。
「モンペ」と同じで、真っ当な主張や止むを得ない失敗をした人間に対しても、何か一括りにされる語感がある。)
現場を大変にしている根本は、ビルド&ビルドの発想による山積みのタスクである。
そして、それらセイギの命令に、いちいち無思考で従っているから、という見方もできる。
セイギの命令の中には、どうでもいいことがたくさんある。
「○○スタンダード」という名の命令が横行していることもある。
それらをおかしいと考えている人はかなりいる。
しかし、そこに対し、誰も声を挙げない。
それに従って「仕方のないことだ」と言う。
その時、目は濁る。
どんどん、濁っていき、やがてすべてが白黒にしか見えなくなる。
先日、ネットニュースで使われていた言葉だが「教員の奴隷化」である。
この姿は、金子光晴作の「奴隷根性の唄」という詩の通りである。
「土下座した根性は立ち上がれぬ。」のである。
ここを変える。
我々は、奴隷ではない。
志ある教員集団である。
おかしいことにはおかしいと言う。
何でも命令だからという理由では従えない。
そのためには、まず先に自分自身がおかしいことをしていないかという自己点検からである。
『不親切教師のススメ』では、そのことを訴えている。
自己主張をしているのではない。
教員も子どもも保護者も、まずは自己を尊重し、だからこそ他者を尊重して生きようという提言書である。
「正義」の「犠牲」にならない。
どんなに正当性を主張されようが、ダメなものはダメである。
自ら立ち上がり、声をあげる人が多くなれば、今とは何かが変わるはずである。
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