2022年8月11日木曜日

「勉強しなさい」と言う権利はない

 知っている人もいるかもしれないが、私はほぼテレビ番組を見ない。

社会人になってからは月当りの視聴時間0ということも珍しくない。

オンデマンドで映画等を見ることはあるが、普通に民放等で流れている番組を見ることはほぼない。

なので「好きなテレビ番組は?タレントは?」という質問に閉口してしまう。


見ない主たる理由は、自分自身が「面白いと思えない」「見てて疲れる」からである。

これは「サッカーなんてつまらない」「マラソンなんてわざわざ疲れることをやる人は信じられない」という人の理由と同じである。

個人の価値観の違いであり、それそのものを否定するものではない。

マスメディアがこれだけ隆盛しているのだから、世の中に求められていることは間違いない。

どんなことであれ「蓼食う虫も好き好き」である。


それでも、スマホなどの媒体からニュースは目に入る。

専らネガティブなものが多いが、不祥事や失言、番組へのクレームなどは取り上げられることが多いようである。

先日も、番組中でお笑い芸人に不適切な行動があったということでニュースになっていた。


こういう風潮は、結構気になる。

何かというと、お笑い芸人がやっているようなバラエティ番組に、割と厳しめの道徳が求められているという点である。

無論、前号でも書いたように、お笑い番組には、後で見返してみて大きな過ちがあるネタもかなりある。


なぜならば、大衆がメディアに求める笑いというものは、日常を吹き飛ばすことによって生じるものだからである。

それはつまり「当たり前」を壊すものであり、時に不道徳であることも珍しくないからである。


時代の風刺画などを見てもそれはわかる。

基本的に「ふざけて」いるのである。

一般的にやってはダメなことをしたり言ったりするのを見ることで、溜飲が下がる思いがする性質のものである。

(それらは、落語や芸能などの愉しみ、ユーモアとは一線を画す。)


そこにクレームをつけるのは、なぜなのか。

「子どもに悪影響」とか「○○が可哀そうだ」とか色々ある。

要するに、親切心である。


しかし、「子どもに悪影響」な演出が、例えばお笑い芸人が進行を務めるバラエティ番組中に出ることは、予想通りなのではないか。

そもそも子どもに見せている時点で、そこは承諾済なのではないだろうか。

そして、大人の側はある程度以上、その笑いを求めているのではないだろうか。

(ネガティブなニュースが週刊誌他、世に溢れていることがその証である。)


テレビ番組のプロデューサーの感覚の鈍さがよく批判されるが、視聴者の側のその辺りの自分勝手な感覚も、どうにも気になるのである。

実際、視聴率を取るというのは「とにかく面白いと思われた方が勝つ」という弱肉強食の世界であり、キレイゴトでは済まされない。

メディアにネガティブで大衆的なものを多く求めている割に、同時に真逆の良質な道徳性を求めすぎな気がするのである。


要は「自分が不快」なだけならば、今後見なければいいだけの話。

自分が直接的に不利益を被っている立場なのであれば、相手に正すよう要望を出すのも当然である。


一方「誰かが迷惑する」「誰かが可哀そう」というのなら、余計なお世話である。

そんなもの、周りが騒ぎさえしなければ、その「誰か」である本人の課題である。

余計な親切心である。


学校にもこれは当てはまる。

「子どもが可哀そう」と思って、色々先回りして手出し口出しをして、その種を潰そうとする。

これが、親切教育である。


例えば「勉強しなさい」は、子どもの将来が悪くなっては可哀そうという、親切心からである。


不親切教師のススメ』P.86から引用する。


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(引用開始)

「勉強しなさい」というのは、親から子どもに対してよく出る言葉のようだが、教師がこれを発していることもある。

勉強ができないと将来困るだろうという親切心、もしくは教師としての責任感からである。


結論から言うと、不親切教師は、決して勉強しなさいとは言わない。

この言葉が、子どもの主体性を大きく損なうことを知っているからである。

「勉強しなさい」は明確な命令であり、「あなたのため」という親切心に満ちた名目における、善意による行動の支配である。

この支配が成功した暁には、親や教師たちははずっと子どもの勉強の面倒を見るはめになる。

子どもは支配されている以上、自分で決められなくなるからである。

大人の顔色をうかがうことが、行動の価値判断基準になる。

そして、勉強するかどうかということは、子どもの課題ではなく、周囲の大人の課題にすり替わる。

主体性をもった子どもとは真逆の方向に育つ。

(引用終了)

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勉強ができなくて困るのは、誰なのだろうか。

教師が困るのか、親が困るのか。

そんなはずはない。

勉強をすべきというのは、「こうなって欲しい」というこちら側の願望にすぎない。


他人の課題に対し、どうこう言う必要はない。

細かく口出しをするのは、信頼していない証拠である。


他人の行動に口出しし得るのは、自分が困る時である。

例えば「私の将来と名誉のためにあなたに勉強して欲しい」というのなら、まだわかる。

(わかるが、最低な理由だとも思う。)


そして、頼まれた側は「お断りします」という権利もある。

他人の権利を侵害しない範囲で、個々の自由は尊重されるのである。

自分の権利を行使するために、他人の行動に対しての強制はできないのである。


他人の課題に対しては、基本的に不親切でいいのである。

どうしても力になりたいのなら「困ったら相談に乗るから、声をかけて」という程度である。

相談するかしないかは、相手に決定権がある。

子どもに「自己決定」の機会を多く設けることが肝要である。


ついつい親切になりがちな人にこそ、『不親切教師のススメ』を是非読んでもらいたいと切に願う。

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