4月にメルマガ上で書いた記事。
夏休み明けからの「二度目の学級開き」にも参考になるかと思い、掲載する。
4月に異動した先で、校内研修として学級開きについて担当させてもらった。
特に何も知らない教員一年目などは、何をしていいかわからないものである。
具体例や最低限のことを知っておいて損はない。
(私もやって欲しかった。)
あらゆる仕事において、知識を得て技能を身に付けることは必須である。
まず最低限度の知識と技能がないと仕事にならない。
自分が普段生活でお世話になる人を考えてみればわかる。
例えば「やる気はあるけど知識と技能は全くない医師」に手術をしてもらいたい人などいない。
しかしながら、思いややる気というのは、見えないエネルギーである。
エネルギーである以上、相手に伝わる。
学級開きからその後において、最も大切なことはこの思いのエネルギーである。
そもそも準備をしようという時点から、思いのエネルギーが溢れている証拠である。
子どもたちは、見抜く天才である。
この大人がどういう思いで自分たちに対しているのかを、じっくり観察し、直感で見抜く。
上手く取り繕ろおうとしても見抜かれる。
上手く操作しようという功利的な思いも見抜かれる。
愛想笑いや表面的な褒め言葉なども、全て見抜かれる。
思いのエネルギーがどうしても伝わるからである。
だから、本気で対する以外にない。
「見抜く技術」は伝えられるが、「見抜かれない技術」を伝えるのは難しい。
特に相手が子どもの場合には無理である。
若い人の学級が荒れるという話を時々きくが、その学級の子どもに尋ねてみると以外と満足していることもある。
知識不足でやり方が下手でも、そこに強い思いがあるからではないかと思う。
一方で、ベテランの安定しているように見える学級の子どもが、裏で大きな不満を抱いていることもある。
勢いのある教師のもつ学級の子どもが、結果を出しているようで実は疲れ果てていることもある。
やり方が上手いから問題が表面化していないだけで、思いがないか、方向が誤っているからである。
思いの方向性、エネルギーの方向性というのは決定的に大切である。
例えば教師であれば子どもに対し「できるようにさせたい」と思うのは自然である。
しかしながらそれが「そう願う子どもの思いに応えたい」のか「自らの指導力を示したい」のかでエネルギーの方向性が全く違う。
そもそも、できるようになりたいと思っていない相手に教えることなど本来できないのである。
そうなりたいと思えるようなきっかけを与えるのが先で、それでもどうやってもそう思わない人を無理矢理向かせるのは誤りである。
思いの方向性というのが根本的に大切である。
さらに言うと、こちらが本気であっても、押し付けととられては迷惑がられるだけである。
一方、そもそも思いがないのでは話にならない。
(目的が知識と技能の伝達だけならそれでも構わないが。)
学級開きから全て、相手目線をもちつつ、自分の思いを表明し伝えていく。
前提として、出会わせて頂いた目の前の子どもを尊敬している必要がある。
上から目線は必ず伝わる。
逆に功利的に迎合するような姿勢も伝わる。
あんな子どもを尊敬なんてできないという意見もある。
しかしながら、そう思っている時点で、既に相手から教わる要素がかなりある。
悔しく辛いことだが、そう思う相手のもつ本質的な価値を見いだせないところにこそ、自分を成長させてくれる点がある。
かつて『やる気スイッチ押してみよう!』の第1章冒頭にも書いたが、「気になる子こそ、神様」である。
(参考:ここについては下記リンクの中の「立ち読み」で見られる。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1)
知識と技能は最低限の前提。
感化・影響を与えられる思いこそが本質。
新年度、せっかくの場を与えてもらったのであれば、そこに心を入れて大いに励みたいところである。
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