2022年8月16日火曜日

身体は一見「不親切」

 ちょうど4カ月前、アキレス腱を断裂し、手術及び入院をした。


半年以上前から、その兆候があった。

つまりは、去年の冬頃からである。

足首への違和感である。

最初は「ちょっと痛いかも」「筋肉痛かな」ぐらいであった。


そのまま特に気にせず、激しい運動もやっていた。

痛くて運動できない時期があっても、数日すれば、痛みが和らぐ時期がある。


すると「もう治ったかも」と勘違いする。

虫歯と同じである。

実は、内部でより悪化しているのだが、一時的に症状を感じなくなっているだけである。


途中でまた痛くなっても

「痛い気がしているだけ」

「またすぐ治る」

と思い込もうとする。


ある日、身体が限界に達したことを伝えてくる。

その部位がアキレス腱なら切れて歩けなくなる。

その部位が心臓や脳なら、その場で卒倒する場合もある。


身体の方は、きちんとシグナルを送り続けている。

「痛いよ」「このままだとまずいよ」とめげずに伝え続けてきてくれているのである。


身体の方には、罪も落ち度もない。

問題は、その再三の警告を無視した思考の方である。

ポジティブなのではなく、単に無思考、考え無しなのである。

これはいけない。


人間の身体というのは、本当によくできている。

何か異常があれば、それを「痛み」という不快なシグナルで脳に伝える。

なぜ不快なシグナルをわざわざ使うのかというと、人間は不快を避けることを優先して行うためである。

何より優先的に扱ってもらうため、痛みや苦しみとして伝える訳である。


しかも、理不尽にも耐える構造をしている。

どうしようもない食物を胃に放り込んでも何とか消化してエネルギーに変換する。

体に悪い煙を吸い続けても、過度のアルコールや糖分を摂取しても、何とか分解し、適応しようとする。

実に働き者で、健気である。


要は、身体の痛みというシグナルは、一見「不親切」なのである。

痛みという不快感を与えることで、「これは良くない状態」と認識させ、それを避ける行動を喚起し、よりよい状態に導く。

ここで痛みを我慢したり、逆に「親切」にも痛み止めで痛みを取り除いたりすると、より悪い状態になる。


我慢して痛みに耐えるということ一つをとっても、その内訳は様々である。

先に述べたように、身体の異常サインを無視して我慢するのは、身体にとってマイナスの我慢である。

逆に、きついが痛みを我慢してリハビリに専念するのは、身体にとってプラスの我慢である。


何が本物の親切かということである。

痛いのを忘れるために痛み止めを飲んだり、眠いのにカフェインドリンクを飲んでがんばったりすること。

逆に、痛いだろうけど敢えてリハビリをさせたり、過労に対し発熱や頭痛という形で強制的に休ませたりすること。


相手のため、身体のためを本当に思っているのは、どちらなのか。

答えは明白である。


常識から外れた提案をされると、拒絶が起きる。

提案する側も批判されたりいじめられたりするのは痛いし怖いから、勇気もいる。

しかしそれがリハビリになるのであれば、痛みが予想されようとも、我慢してやるべきである。


やりたいことをやるのではなく、やるべきことをやる。

勇気をもって、世の中に『不親切教師のススメ』をすすめていきたい。

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