2022年8月3日水曜日

差別をするのは意地悪な人間か

 絶対的に正しいことも悪いことも存在しない。

この大前提の認識に立って書く。


主張とは、一つの正義である。

主張を一つすれば、正義が一つ生まれる。

即ち、悪が一つ生まれる。

物事は表裏一体であるので、それは必然である。


そして正義も悪も、人間が頭で作り出した概念である。

自然の創造物ではない。


他の生物を殺して食うライオンを悪とする動物も植物もいない。

草食獣は、腹を空かせた肉食獣が自分を食うと知っているから、逃げる。

そうでないものからは逃げない。


それは、悪とか善とかの概念の問題ではない。

生きるか死ぬかというだけの話である。

生物は、生きること、種を保存することに生命の全てを注ぎ、そのための選択をする。

それだけの話である。


あらゆる主張には、必ず正義(善)があり、同時に裏側に悪とみなされる概念が存在する。

一方、そこで「悪」とされている概念を「善」とみなす人もいる。

「善」からすれば先の正義は「悪」である。

「悪には悪の救世主が必要」とは、とある有名な漫画のキャラクターの台詞だが、言い得て妙である。


つまりは、絶対的な正義も悪も存在しない。

そこには一つの主張があるだけである。


前置きが長くなったが、次の本を書いた。


『不親切教師のススメ』 さくら社


ここで述べている主張は、もしかしたら今まで学校がしてきたことを大きく否定することになるかもしれない。

人間には「恒常性(ホメオスタシス)」があるため、変化を嫌う。

しかし、成長とは変化の中の一つである。

嫌でも、向き合う方が長期的視点で見て、プラスになる。


例えば、本文に背の順に関する記述がある。

P.119より一部抜粋して引用する。


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(引用開始)

学校では、何かにつけて「背の順」で並ぶ。

このことに対し、違和感をもつ日本人は少ないのではないか。

小学校入学時どころか、幼稚園・保育園児の頃からあまりにも当たり前にやらされることなので、

自然にそういうものだと思わされる慣習の一つである。


冷静に考えて、背の順に並ばせるのは、身体的特徴による差別の誇示である。

背丈という本人にはどうしようもない身体的特徴を並べて比較し、小さい方から大きい方へと序列をつけて並べる。

一番小さい人と一番大きい人を確定して、誰の目にも明らかなように序列を公表する。

これが身体的特徴による差別であることは、大人が会社等でこれを強制されないというのを考えればわかる。

(体重順に並ばせるのも全く同じことである。)。

明確な差別であり、いじめの類の行為である。

(引用終了)

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はっきり主張しているが、書いた本人が背の順で並ばせたことがないのか。

答えは「NO」である。

これまで、当たり前としてやってきた。

つまり、これまでの自分を否定して、変化しようということである。


では、差別意識があったのか。

これも答えは「NO」である。

差別しようなんて意識が、あるわけがない。


背の順に対し、差別意識があって意地悪でやっている人など、恐らく日本中探してもまずいない。

むしろ善意であり、仕事の一環として真面目に行っているだけである。


しかし差別というのは、本人や社会にその意識がない時ほどよく行われているものであり、強力な凶器となる。

周りは何の気なしに言ったことや笑ったことに対し、本人は実は深く傷ついている、というのは誰しも経験があることではないか。

あるいは、無意識下に押し込み「そういうことを気にしたり考えたりする自分が異常で悪いのだ」と責めていることすらある。


意図していない差別というのは、これまでの歴史でもたくさんあり、反省と改善・進化を繰り返してきている。

子どもの権利条約が出されたこともそうだし、人種差別、ジェンダー差別などはまさにそれである。

例えば「ホモセクシュアルを笑う」というのは、かつてテレビメディアが先導して行い、多数の国民に喜んで受け入れられてきた。

今になって思えば、まさに負の歴史である。


実際、私も子ども時代、そういう経験がある。

テレビでもお笑いのネタになっていたこともあり、それを笑うのは当然だと思い込んでいた。

性的指向が男性という同級生は、からかいの対象であった。

私がそういうことを差別ではないかと意識しはじめたのは、高校に入って自分の頭でよく考えるようになってからである。

大学にいっても周囲から同じような差別的発言を聞いていたので、当時は社会的な意識自体がかなり低かったように思う。


では、その時笑っていた子ども時代の同級生や私たちは、意地の悪い凶悪な人間であったか。

これも答えは「NO」である。


では、なぜ子どもがそうなってしまったのか。

社会の常識、「当たり前」からである。

それは、根本的には、教育によって作られる。


学校で身の回りの「当たり前」になっていることの中には、恐ろしい差別が含まれていることがあるのではないだろうか。

それを見つめ直し、変えていく必要があるのではないだろうか。

今まで自分が当たり前としてやってきたことだけに、痛みも伴うだろうが、大切なのは、よりよい変化、成長であり、未来である。


これが、本書『不親切教師のススメ』で提案している、これからの教育の形の「主張」である。

主張である以上、一面の正義であり、悪も生まれる。

そして、この正義が悪という見方もあり得る。


様々な意見があることを覚悟の上で、本書を上梓した。

一つの主張として、考える材料にしていただければ幸いである。

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