「知識偏重」「頭でっかち」というように、知識が悪玉のように言われることもある。
知識ばっかりで行動が伴わない人間では確かに役に立たない。
しかしながら、知識もやはり大切である。
先日、我が愚息が水泳用ゴーグルのゴムを切った。
おばあちゃんに買ってもらったお気に入りで、大泣きである。
なぜ切れたかというと、パチンコのように引っ張って遊んだから。
切れて当然である。
なぜそのような愚行に走ったのか。
まず「ゴムは無理な力を加えると劣化する」という知識がない。
更に「こうすると壊れる」という経験もない。
「まさかゴーグルのゴムが切れるとは」という感じである。
それで壊れて泣くとは、こちらからすれば物事の道理に反する感がある。
(ついでに「物を大切に扱う」という道徳的姿勢にも欠く。)
とかく、子どもというのはこういうことをしがちである。
いわゆる「常識」が通らない。
それは、生きてきた時間が短く、知識や経験が少ないからである。
米を洗剤で洗うという笑い話もあるが、「洗う」=「洗剤」の知識からだろう。
現在、家庭科では「油汚れは不要な紙でまず拭き取る」「油汚れ以外に洗剤はなるべく使わない」ということも教える。
放っておくと、めちゃくちゃに洗剤を使うからである。
知識がないと、排水口の先の川や海がどうなるか想像できない。
一昔前は、ご家庭でもてんぷらで使った油を直接排水口に流していた時代があるという。
これも「無知」のなせる業である。
「油が自然を汚す」ということが常識として通っていなかったのだろう。
ある病気に対し「近づくだけでうつる」という嘘が常識化したのもしばしばである。
(保健でエイズの授業をすると、よくわかる。確実に教えないといけない。)
大人とて、知識がなければそういう「非常識」があり得る。
教育も同じである。
どれぐらいの知識があって教室で教えているのか。
自分が学校教育で受けきた授業をそのままやったら、最低でも十年以上遅れた教育になる。
「十年一日」で教育をしていたら、どんどん劣化していく。
素晴らしい授業の「モデル(イメージ)」が知識として必要である。
これは、多ければ多いほどいい。
自分の個性に合うタイプ、合わないタイプがあるので、多い分だけ取捨選択ができる。
そのために、わざわざ高いお金と多くの時間を使って、セミナーや授業公開にでかける。
休日は、レジャーを楽しみつつ、知識を得る活動も併せて行いたい。
2013年9月12日木曜日
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