前号の「聞く」と「聴く」の話に関連して、学級における全体と個のバランスについて。
今回は次の本から。
この本の中に次の一節がある。P.188より引用する。
===============
(引用開始)
ナショナリズムがなくなれば、私たちはみな自由主義の楽園で暮らせるなどと想像するのは、危険な過ちだ。
ナショナリズムなしでは、部族社会特有の混乱状態の中で暮らす羽目になる可能性の方が高い。
とくに民主主義はナショナリズム抜きにしてはきちんと機能できない。
(引用終了)
============
個の時代と言われている現代にあって、全体主義はすこぶる人気がない。
日本では、一時期の行き過ぎた「会社に一生を捧げる」という考え方への反動もある。
しかしながら、現代の「知の巨人」とも称されるハラリ氏が述べるように、集団全体を考えない自由というのは存在しない。
自由主義や民主主義を目指す上で、集団を完全にないがしろにすることはできない。
個も集団によって生かされているからである。
自由や権利が、義務や責任の上に保障されるということと同義である。
学級でも、個人の思いを「聴く」ということはする。
しかしながら、そこにある要望を全て通すかというと、話は全く別である。
集団にとっての不利益となることは容認できない。
極端な例で言えば、例えば席決めである。
「私はこの席がいい」という個々の要望を「自由」と称して完全に尊重しようとすれば、破綻する。
互いの要望が確実にぶつかり、放っておけば争いになるからである。
その先に待っているのは、弱肉強食の世界であり、それはハラリ氏の述べる「部族社会特有の混乱状態」である。
社会としては、そこに共通理解されたルールが必要になる。
例えばある程度自由に座席を決められるにしても、一定のルールが必要になる。
それがどんなルールであるかは、その場に応じて決めるものであるので一概には言えない。
少なくとも、強い者が弱い者に対してマウントを取るような集団であれば、この自由方式は確実に使えない。
その場合、指導者が決めた方がよい結果が待っている可能性が高い。
話を戻すと、個の自由を尊重するには、互いを尊重する集団が成立している必要がある。
成員が集団に貢献しようとしないのであれば、自由という権利を与える訳にはいかない。
行き過ぎたナショナリズムは問題だが、個人主義で自己の利益のみを追求するのも同様に問題である。
指導者は「聞く」の姿勢で、常に適切な判断を必要とされる。
一方で「聴く」の姿勢で、個に寄り添う必要もある。
個が生きてこそ全体も生きるし、その逆も真だからである。
これは教師という立場に限らず、全ての集団の指導的立場にある人間に必要な姿勢である。
全体か個かという問い自体が成立しない。
個を生かすために全体を尊重する必要がある。
学校は個の成長のためだが、それは社会、広くは世界、地球という全体に貢献できる人間へ成長するための場である。
話を「聞く」と「聴く」のバランスへの一つの考え方として、提示してみた。
0 件のコメント:
コメントを投稿