「聞く」には2種類ある。
「音声として耳に入っている」という状態と「理解する」ということである。
つまり「一見聞いているようだけど理解していない」があり得る。
例えば、すごく真面目に授業を受けているけど、内容がわかっていない。
反応や返事がすごくいいけど、実はわかっていない。
こういう状態である。
逆に「聞いていないようで実は理解している」ということもある。
例えば、授業を真面目に受けてないと思っていたら、実はよく理解して楽しんでいた。
教室の後ろで好き勝手に寝っ転がって遊んでいたと思ったら、大事なことを急に発言する。
こういう状態である。
どちらをどう扱うか。
教室で歓迎されるのは、Aの方である。
真面目に聞いているように見えるからである。
しかし、実際はBの状態の方が学校の目的には適う。
一見扱いづらいようだが、身に付けさせたい学力をつけているともいえる。
聞く態度がよくないだけで、能力的には聞く力を活用しているということである。
学校教育の抱える問題点がここにあるように思っている。
即ち、表面的な態度を重視しすぎて、本質的な力をつけられていないのではないか、ということである。
「素直でいい子」「お利口」を称賛しすぎる傾向がみられないか。
よくわかっていないけど従うようにしていないか。
それは大人への迎合になっていないかということである。
よく考える子の中には、一見あまり素直には見えない子どもが複数含まれる。
例えば、全く喋らない(発言しない)子。
いつも「変な発言」をする子。
言われたことがなかなかできない子。
これらを「問題のある子」とみなすと、教育はその意義を失っていく。
大概、どこかが突出していれば、どこかが大きく凹んでいるものである。
突出している部分が多い子であれば、凹みも多い。
こちらから凹んで見えているのも、単なる表現の違いに過ぎないかもしれない。
教える側の問題は、凹んでいる(と思える)側にひどく注目してしまうことである。
逆に、突出している面は、ずっと上まであって、下からはよく見えないので注目されにくい。
「聞いていない」という態度面は、よく目立つ凹みに見える。
それは、本当に聞いていないのか。
本当に反抗的なだけなのか。
やる気がないのか。
本人なりの理由もあるのではないか。
聞けるようになる手立てがあるのではないか。
あるいは、一見聞けないままでも大丈夫なのではないか。
私自身、あまり授業をきちんと聞いていなかった、あるいは聞けなかったことが多々ある。
一方で、必要なことには全神経を集中して聞くこともある。
それは、今でも全く変わっていない。
自分という人間一人見ても、何でも同じようにはできないのである。
聞くことは学力の中心である。
ここをどう扱うかは、教育において重要な位置を占めると考える。
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