2022年3月5日土曜日

教室における「聞く」を考える

 「聞く」には2種類ある。

「音声として耳に入っている」という状態と「理解する」ということである。


つまり「一見聞いているようだけど理解していない」があり得る。

例えば、すごく真面目に授業を受けているけど、内容がわかっていない。

反応や返事がすごくいいけど、実はわかっていない。

こういう状態である。


逆に「聞いていないようで実は理解している」ということもある。

例えば、授業を真面目に受けてないと思っていたら、実はよく理解して楽しんでいた。

教室の後ろで好き勝手に寝っ転がって遊んでいたと思ったら、大事なことを急に発言する。

こういう状態である。


どちらをどう扱うか。

教室で歓迎されるのは、Aの方である。

真面目に聞いているように見えるからである。


しかし、実際はBの状態の方が学校の目的には適う。

一見扱いづらいようだが、身に付けさせたい学力をつけているともいえる。

聞く態度がよくないだけで、能力的には聞く力を活用しているということである。



学校教育の抱える問題点がここにあるように思っている。

即ち、表面的な態度を重視しすぎて、本質的な力をつけられていないのではないか、ということである。


「素直でいい子」「お利口」を称賛しすぎる傾向がみられないか。

よくわかっていないけど従うようにしていないか。

それは大人への迎合になっていないかということである。


よく考える子の中には、一見あまり素直には見えない子どもが複数含まれる。

例えば、全く喋らない(発言しない)子。

いつも「変な発言」をする子。

言われたことがなかなかできない子。


これらを「問題のある子」とみなすと、教育はその意義を失っていく。

大概、どこかが突出していれば、どこかが大きく凹んでいるものである。

突出している部分が多い子であれば、凹みも多い。

こちらから凹んで見えているのも、単なる表現の違いに過ぎないかもしれない。


教える側の問題は、凹んでいる(と思える)側にひどく注目してしまうことである。

逆に、突出している面は、ずっと上まであって、下からはよく見えないので注目されにくい。

「聞いていない」という態度面は、よく目立つ凹みに見える。


それは、本当に聞いていないのか。

本当に反抗的なだけなのか。

やる気がないのか。

本人なりの理由もあるのではないか。

聞けるようになる手立てがあるのではないか。

あるいは、一見聞けないままでも大丈夫なのではないか。


私自身、あまり授業をきちんと聞いていなかった、あるいは聞けなかったことが多々ある。

一方で、必要なことには全神経を集中して聞くこともある。

それは、今でも全く変わっていない。

自分という人間一人見ても、何でも同じようにはできないのである。


聞くことは学力の中心である。

ここをどう扱うかは、教育において重要な位置を占めると考える。

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