前号に続き「聞く」をテーマに考える。
まずは次の本から。
ケイト・マーフィ(著)、篠田真貴子(監訳)、松丸さとみ(訳) 日経BP
この本の冒頭で、監訳者が次のように訳注をつけている。
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本書タイトルの「LISTEN」には、能動的に「耳を傾ける」という意味があります。
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明確に「hear」との区別をしている。
前号でも「聞く」には種類があると書いたが、
「hear」は「自然と耳に音が入って来る」
という状態である。
意識を相手に向ける「listen」とは明瞭に意味が異なる。
「馬耳東風」ということわざがあるが、これは「hear」の状態ではあるが明らかに「listen」ではない。
子どもが教室で黙って席について話を聞いているようでも、それが「listen」であるかはわからないのである。
どんなに懇切丁寧に説明したところで、単に耳に音声が入っているだけの「hear」かもしれない。
この可能性を頭に入れておくことは大切である。
この本の中では、「listen」の訳をさらに「聞く」と「聴く」に意図的に表記を分けている。
両者とも相手の話に意識を向けている状態という点では一緒である。
前者の「聞く」を「自分の頭の中で判断しながら聞く姿勢」としている。
後者の「聴く」を「いったん自分の判断を留保して話し手の見ている景色や感じている感覚に意識を集中させる姿勢」としている。
この二つの違いは大きい。
「私は人の話がよく聞けている」と思っている場合、大抵が前者の「聞く」であるという。
特に教師はこうなりがちである。
例を挙げる。
国語で、一つの発問をしたとする。
「主人公が○○の行動をとったのはなぜでしょう。」
これに対し、子どもが答えていく。
そのいちいちに対し、教師は判断を入れて聞く癖がついている。
あるいは、いちいちに対し音声や表情、板書による言語等で反応していく。(=即時の評価)
これはある意味、仕方のないことといえる。
玉石混交の回答に対し「全部いいね」では学力が全くつかないためである。
「なぜ」という問いに対しては、文章を根拠とした「~~だから」と読み解いて、それを適切に伝える力をつける必要がある。
だから、どうしても聞くに際しての思考による判断が必要になる。
判断が前提の「聞く」が癖になってしまう所以である。
(この大きな問題点は、教師の側が知識不足だったり感性が鈍かったりすると、玉を石と判断して捨ててしまうことである。)
ちなみに「どう感じたか」と問うた場合については、全部認めればよい。
感じ方はあくまで人それぞれだからである。
それは道徳科の授業の問い方であり、価値観のすり合わせ作業である。
その時必要な姿勢は、自分の価値観をいったん脇におく「聴く」の方である。
即ち、カウンセリングマインドである。
教師が多く使う「聞く」と、カウンセラーが多く使う「聴く」は技術的に異なる。
父性と母性の違いにも近い。
迷っている人に対し、行くべき道を指し示し導くような姿勢と、丸ごと受け止めて頭を撫でてやるような姿勢の違いである。
元々、教師に多く求められていた役割は、前者の方であり、後者は家庭が担っていた。
家では「先生の言うことをよく聞いてきなさい」と送り出されていた時代である。
やることが、かなりかっちりと決まっていた。
しかしながら、現在はこれが違ってきている。
「子どもの心に寄り添う」
「個別最適な学び」
「多様性を認める」
といった「聴く」姿勢に近いことが多く求められるようになった。
(「そうせねばらならない」というルールが追加されたともいえる。)
つまり、教師に求められる「聞く」という技術一つとっても、時代の変化と共に質的な変容があったと言える。
先のように、判断する「聞く」には不易としての価値もありつつ、「聴く」の価値の比重が高まった。
この両者のバランスをとる難しさは、現場で教えている人間なら肌で感じているはずである。
「本当はこうしてあげたいけど、きまりでできない」などというのも、これと類似した問題である。
全体として「正しい」方向へ導く姿勢と、個に寄り添う姿勢のバランスである。
聞くという行為は、深淵である。
学校における「聞く」と「聴く」のバランスをどうするかを今後も考えていく。
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