2016年2月23日火曜日

「私は」の観

正義は人によって違うということを書いた。
これは、見方を変えれば、「観」の違いである。

「観」はフィルタである。
「観」はブラックボックスのようなもので、入力されたものが中で変換されて、出力される。

出来事→観→(その人にとっての)事実
となる。

これは「情報」というのが、
出来事→感情→情報 という流れに似ている。
(ちなみに「情報」とは情の入った報せである、というのは、野口芳宏先生の教えである。)
同じニュースでも、報じる局や新聞社によって、肯定的だったり否定的だったりするのはこれである。

だから、国語の学習でよくある「事実と意見を分けて書け」という課題は、厳密に考えると非常に難しい。
「あのラーメン店は、はやっていて、美味しい。」
これは意見なのか事実なのか。
「はやっている」のならば、一般的にいって「美味しい」というのは事実ではないか。
いや、私はあそこのラーメンは美味しいとは思えない。
そもそも、「はやっている」とはどの状態から事実といえるのか。
周りの人気店と比較したら「はやっている」とはいえないのではないか。
・・・等々。
難しいところである。

私たちの認識する全ての「事実」には必ず「私は」がつく。
「私は」美味しいと思う。
「私は」正しいと思う。
「私は」良いことだと思う。
・・・・

道徳の授業の難しさがここにある。
教えたい「価値項目」があるのだが、このねらった項目を子ども側が認識するかどうかが疑わしい。

長くなったので次号に続く。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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