2016年10月1日土曜日

夏休みの作品をどう見るか

1月前のメルマガ記事からなので、時期外れなのはご容赦を。

以前書いたこともあり、ラジオなどでも話したことのある内容ではあるが、大切なことなので再度。

夏休み、様々な宿題が出ている。
それを子どもは一生懸命やってくる。
当然、親も一緒に一生懸命やらざるを得ない。
中には「親と共に取材してくる」というような、絶対に親がやらざるを得ない課題のこともある。
それも、もはや暗黙の了解のようになっている。

この大量に出される夏休みの宿題には、様々な問題が絡む。
そもそも、夏休みの作品を出さないで済む学校ならいい。
実際、そうもいかないところが多い。
色々、学校には地域の〇〇研究部会や各種コンクールから依頼が来ているのである。
学校としても、出さない訳にはいかないという事情がある。

もちろん、ここにはいい面もある。
力のある子どもにとっては、コンクールというのはいい力試しの場である。
試合があるから練習をがんばれるのと同じである。

問題は、そうでもない子ども。
やりたくないのに無理に絵を描いたり作文をしたりするのはかなり辛い。
だから、最近は絵やら工作やら研究やらを「選択」できるようになっていることも多い。
どれか一つぐらいはがんばってやっておいでよということである。

さて、そうなると、先に述べたように自力では難しいので、親が登場せざるを得なくなることもある。
(介入しすぎて、完全にその子どもの作品ではなくなっていることもご愛嬌。)
絵や工作、自由研究から読書感想文まで、ジャンル問わずである。

担任としては、普段指導しているだけに、子どもがどのような技能レベルかは大体把握している。
自力では到底できないであろう力作も中にはある。
それでも笑顔で子どもに「よくがんばったね」というのが通例である。
悪戦苦闘したであろう親の心情も慮ると、それしかいいようがない。

そこで気になるのが、どう見ても、周りと比べて出来映えがよくない作品。

ここをどう見るかが肝である。

本人自身、周りと比べても、自分のはダメだなと感じているかもしれない。
ただ、この子どもの作品は、先の視点からいくと、親の手が入っていない可能性が高い。

それは、意図的かもしれない。
親が「夏休みの宿題は子どもの宿題。親が手を出すべきでない」という方針をもち、子どもがすべて自力で作ったのかもしれない。

それは、必然的かもしれない。
親が病気などの諸事情で全く宿題を見られる状況ではなく、子どもがすべて自力で作ったのかもしれない。

はたまた、別の事情かもしれない。
ただ、子どもが独力で作ったらしいということだけが、高い確率で予想される。

学校の宿題そのものは、コンクールではない。
あくまで、その中でコンクール出品となる過程があるだけである。
だから、本来は出来映えどうこうを問うべきではない。
子どもが、それを通して、何を表現したかったかがすべてである。
本来は自力でやったかどうかが一番大切である。

その視点で見ると、褒める点がたくさんみえる。
その崩れかけた部分から、たどたどしい文章から、読み取れるものがある。
何とか接着したであろうそのボンドの跡から、本人の汗が見える。

表面的に見ない。
一面的に見ない。
夏休みの作品に限らず、子どもをみるすべての時において大切なことである。

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