2016年10月23日日曜日

自分と相手への合理的配慮

前号のインクルーシブ教育の話の続き。

本人の困り感に共感するのは難しい。
外から見て明らかに困難が確認できるものは、配慮されやすい。
しかし、内面的なものは目に見えない。
下手すると「単なるわがまま」と混同されてしまうのが辛いところである。

ここに「合理的配慮」が必要である。
簡単に言うと、
「AさんにやってもBさんにはやらない」というようなことである。
Aさんには必要なことだから配慮する。
Bさんには必要ないことだから配慮しない。
講師の先生はこれを「横並びからの脱却」と表現していた。
一律に同じ指導・支援をしないということである。
ただ、合理的である反面、何でもかんでも個の要求通りにはできないという面もある。

つまりは、自己理解と他者理解の両方が必要ということであると解釈した。
Aさんにはこれが自力ではできない。
だから、助ける必要がある。
しかし、Aさんにとって必要な支援が、自分には提供できない。
だから、他の人の助けが要る。
それは、周りの子どもかもしれないし、同僚かもしれないし、外部機関の人かもしれない。
そういう思考ができないと、無闇に「頑張る」という方向になってしまう。
頑張ってもダメなことだから合理的配慮が必要なのである。
(なお、よく頑張れる人は、他者にも頑張ることを強要する傾向があるので、注意が必要である。)

相手に合理的配慮が必要なのと同様、自分にも必要である。
自分にできることは何なのかを理解する。
それを考えるために、自分にできないことは何なのかを理解する。
コインの裏表と同じで、二つでワンセットである。

自分と相手、それぞれできないことを見極め、できることに全力を尽くしたい。

「学級崩壊」の言葉を捨てる

素直さと学級崩壊との関連について。 学級崩壊の分岐点は、ここなのである。 子どもがひねくれてしまっているのである。 最初から聞く価値がないと各々が判断している訳であるから、当然授業も成り立たない。 素直でないので、何を言っても聞かない。 「だって」と「でも」で屁理屈...

ブログ アーカイブ