日常生活の気付きからのブリッジング。
毎朝納豆を食べる。
色々な種類を試す。
すると、違うものでも共通点が結構あることに気付く。
共通項がわかるからこそ、違いもわかる。
先日、いつもの納豆を食べた。
混ぜた感触が何かおかしい。
いつもよりさらっとしているのである。
何か、変である。
賞味期限を調べてみると、まだまだ先である。
賞味期限切れではない。
試しに、一口食べてみる。
豆がいつもより少し硬い。
何か「じゃりじゃり」した食感である。
期限切れの納豆に多い食感である。(わかる人には伝わると思う。)
においも違う。
さて、明らかにおかしいのでこれはやめる。
この時点で、いくつか原因が考えられる。
1 購入前に保存状態が悪くて傷んだ
2 購入後に保存状態が悪くて傷んだ
3 製造過程でのミスがあった
まず、1を疑う。
しかし、冷蔵庫を見ると、同じものがもう一つある。
三個で一セットなので、まだ一つ余っていた状態である。
一個は普通に食べた。
1の場合なら、三つとも傷むはずである。
つまり、1の可能性は低くなる。
2を疑う。
それなら、最後の一つも悪いはずである。
食べてみると、問題なしである。
2も消えた。
この場合、現時点での推測は3。
この1個にのみ、イレギュラーなミスがあったと考える。
大量の製造過程において、やむを得ないともいえる。
納豆菌がうまく働いてくれるかどうかは、完全にはコントロールできない。
これは、諦める。
異状に気付けたのは、自分が毎朝納豆を食べるからである。
要は、通常の状態がわかるから、異変に気付けるということである。
健康観察時に、いつも元気な子どもが元気がなくなったら気付ける。
そこを、普段から適当な返事で済ませていると、変化に気付きにくい。
(これは、確かずっと以前に飯村友和先生のセミナーで聞いた話である。)
だから、元気なら元気な声で返してと求める訳である。
家庭でもこれはいえて、普段接しているからこそ家族の異変に気付ける。
顔もろくに見ないで会話もしないで生活していては、異変に気付けない。
大きな犯罪があると、近所の人へのインタビューが出る。
「そんなことをする人には見えなかった。明るかった。」と言う。
当然である。
そんなに接してないのだから、異状に気付くはずがない。
普段からよく見ること。
そこからその相手の「普通」の状態を知ること。
対人、対モノに関わらず、大切な視点であると思う。
2016年9月11日日曜日
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