2016年11月10日木曜日

「担任がいない時に掃除をさぼる」を考える その2

前号の続き。

交通ルールだったら守らないと命に関わる。
赤信号の危険性は有無を言わさず教えるはずである。
誰しも子どもに「強制」するのをためらわない。
「強制」によって良い方向に「矯正」するのである。
師の野口芳宏先生の言葉を借りれば「善意の強制」である。
やがて、交通ルールの意味や価値に気付く。
言われなくても自主的に守るようになる。

しかし、これがこと掃除などの「教育」になると、ためらう人が増える。
「子どもの自主性」が気になるからである。
やもすると「管理主義」と批判される。
要は、一般論や他人の目が気になるのである。

そんなことはお構いなしに、良いことなら自信を持ってどんどん「強制」する。
それで、やっている子どもを認める。
やっていない子どもは、とりあえず目の外に置く。
その内やるはずである。(ずっとやらない子どももいるが、そういう「つわもの」への対策は最後の最後である。)

アクティブ・ラーニング論とて同様。
指導を怖れて、無策で待っていては始まらない。
まず教えるべきは教える。
基礎となる知識をしっかりと身に付けさせる。
その上で任せれば、自主的にあれこれ試行錯誤ができるようになる。
いきなり「自由にどうぞ」では、単なる指導の放棄である。

「学級崩壊」の言葉を捨てる

素直さと学級崩壊との関連について。 学級崩壊の分岐点は、ここなのである。 子どもがひねくれてしまっているのである。 最初から聞く価値がないと各々が判断している訳であるから、当然授業も成り立たない。 素直でないので、何を言っても聞かない。 「だって」と「でも」で屁理屈...

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