2016年8月17日水曜日

なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣

先月、次の本の著者である俵原先生のセミナーを受けた。
『なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣』俵原正仁 著 学陽書房
https://www.amazon.co.jp/dp/4313652124

この本のあとがきに、次のように書いてある。
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(引用開始)
私の好きな言葉に、次のようなものがあります。
「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る。(ニック・ボックウィンクル)」
これは、相手のスタイルに合わせて、つまり相手の持ち味を十分に引き出すのが私の役目、という意味です。
もちろん、私は教師ですから、この言葉を教育に置き換えて考えます。「相手」はもちろん「子ども」です。
つまり、目の前の「子ども」ありきということです。
(引用終了)
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この先生も「はじめに子どもありき」である。
本来当たり前のことなのだが、意外とつい逆のことをやってしまいがちではないだろうか。
ついつい、教師の側の教えやすさや都合を優先して、自分に合わせさせようとしてしまう。
「クラス会議」を推進している上越教育大学の赤坂真二先生も強調している点である。
この、「子どもありき」の基本姿勢こそが、タイトルの「なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣」ではないかと思う。

どんなに優れた技術を身に付けようと、人格を身に付けようと、教師の力によって先導しているのであれば、将来的な子どもの幸せにはつながらない。
あくまで、目の前の子どもに合わせる。

それは決して子どもにおもねる(阿る)ことではない。
例えるなら、今その人に合ったサイズ、趣味の服を一緒に探すということである。
たまたま教師と同じ趣味にはまることも稀にはあるが、多くは違う趣味のはずである。
違う趣味やサイズの服を無理矢理着せることはできない。
それができる相手は、着せ替え人形である。

子どもは、それぞれの人格を持っている。
自分に似合う服、好きな服がわかっている子どももいれば、そうでない子どももいる。
お勧めすることはできるが、選ぶかどうかは子ども次第。
親や教師の考えとは全然違うものを選ぶかもしれないが、それも自分で決めたなら大成功。
寄り添い一緒に探す手伝いしかできない。
自分で探す力をつけさせるのが、学校である。
親や教師の趣味に合わせて、上手に服を着替えられる子どもが育ってしまったら、大失敗の極みであると思う。

まずは、子どもありき。
いつでも心にとめておきたい言葉である。

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