学級における多様性を受け入れることと生じる矛盾について。
以前にも紹介した次の本から。
『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ著 河出文庫
この本の9章「移民」の中に、次の文がある。
====================
(引用開始)
ヨーロッパは寛容性を大切にするからこそ、不寛容な人があまりに多く入ってくるのを許すわけにはいかない。
(引用終了)
====================
目下戦争中のヨーロッパ地域において、移民にどう対応するかは切実な問題である。
戦地から逃げてきた隣国の移民ならまだしも、その移民が更に隣へ、隣へと移ってくるのに対し、各国がどう対応するかである。
または戦争等とは無関係な場合、移民を受け入れるかどうかである。
ここで問題となるのは、先に引用した文中にある「寛容」度である。
多様性に対し寛容であるということは、多様性を認めない人に対し不寛容であるということになる。
寛容度が高いほど、それを認めない相手を強く排除して不寛容になるという事態になる。
これは、正義と悪の対立構造に似ている。
強い正義の味方は強い悪の敵を生む。
学級経営においてもこれは言える。
先ほど引用した文章の「ヨーロッパ」という大きな集団を「クラス」という小集団に当てはめると、次のようになる。
「クラスは寛容性を大切にするからこそ、不寛容な人があまりに多く入ってくるのを許すわけにはいかない。」
つまりは、担任が強く求める信念があると、それに反するものを受け入れにくくなる。
不寛容な人というのは、例えばクラスにおいていじめをする子ども、排他的な考えの子どもということになる。
例えば「いじめは許さない」という信念自体は一見悪くない。
しかしながら、実際にいじめをしてしまう子どもに対し、許さないという選択肢をとることは難しい。
本当に許さないとなると、それが新たな排除行為、いじめとなってしまう矛盾が生まれる。
例えば「みんな仲良し」を正義とすると、そこに馴染まない子どもは正義に反することになる。
「一人でいい」という子どもや「特定の人と仲良くしたい」は悪になる。
これを認めないこと自体、既に「みんな仲良し」に反する矛盾を生じている。
即ち、ある価値を「善」あるいは「正義」と規定してしまうと、矛盾が生じる。
例えば「自由な学級」は一見いいようだが、「やりたくないことはやらなくていい」ということを同時に認める必要が生じる。
これは困る。
権利と義務はセットになっていないと、機能不全を起こす。
つまりは、バランスである。
どんな状況においても確実な正義というのは存在しない。
自由な方がいいこともあれば、決まっていた方がいいこともある。
時と場合と状況によりけりである。
また、誤解を生みそうなのを承知で敢えて言えば、ある事柄に寛容な人と不寛容な人が混ざっていていい。
それが学びを生む。
『不親切教師のススメ』では、「みんなでドッジボール」はやめようと書いているが、ドッジボールそのものを遊びから排除せよと言っている訳ではない。
やりたくない人まで無理に巻き込んでやらなくていいではないかという主張である。
これは、学習全般に関しても同じである。
ただ、その学びを成立させるためには、互いが傷つけ合わないようなルールの設定は必要である。
そこは学級担任の役目である。
話をすることと、相手の話を聞くこと。
特定の正義を押し付け突き通しすぎないこと。
価値観を擦り合わせること。
そういった試行錯誤の中で学級は成り立つといえる。
0 件のコメント:
コメントを投稿