2022年9月17日土曜日

面倒な民主主義と学級経営

 民主主義というのは、原則面倒くさいものである。

王様が勝手に全部決めてくれるところを、全て自分たちで考えなくてはならない。


リーダーに立候補、選出するところから始まり、そのリーダーの仕事ぶりにもいちいちチェックが必要である。

ルールも細かく決めなくてはいけないが、王様が決める場合と違って、色々な人の意見を聞かないといけないので、なかなか決まらない。

しかも、リーダーの都合のいいようにされないよう、決めたものに対しても常に監視が必要である。

けんかをしても、王様がズバッと有罪無罪を決定してくれるわけではなく、いちいち裁判をしなくてはならない。


実に面倒な仕組みである。

面倒すぎて、法律の改正はおろか、代表を選ぶ投票すら面倒になっているのが、現代の日本である。


一人の王様の言うことを無思考で聞いている方がずっと楽である。

絶対王政である。

それは例えるならば、羊飼いに飼われている羊の状態である。


決まった時間に小屋から牧草地に出され、草を食む。

時間が来たら小屋に入れられる。

時が来たら毛を刈り取られたり搾乳されたりするが、命に関わることではなく、どうということはない。

実に平和である。


ただ、羊ではなく人間としてそれがいいかどうかは、考える余地がある。

また、良い羊飼いに飼われるかどうかということも約束はされない。

羊飼いの気分で突然殺されたり売られたりするリスクもある。

少なくとも、自分の意思では一切決められないのだから、何も考える必要はないということだけは間違いない。


生物の集団の中には、無駄なことや面倒な行動をとるものが一定数いる。

生物が本能的にもっている「安全・安心」の欲求すら脇に置いて、面倒な行動をしようとする。

初めて海から陸に上がろうとした生物など、その最たるものである。


人間の場合だと、わざわざ徒歩で高い山に登ろうとしたり、大海をヨットで横断しようとしたりする。

音楽や美術のような生命維持とは関係ないことに心血を注ぐ人がいる。

気が狂いそうな細かい作業を好んでする人もいるし、ものすごい危険な作業を好んで行う人もいる。


冒険心や探究心も本能に組み込まれているようである。

それが一定数の人間ではなく、実は本来全員にあることは、幼児を見れば容易にわかる。


学級経営にもこれはいえる。

子どもたちを、羊の群れように飼うこともできる。

一方で、対等な人間として付き合うこともできる。

相手をどう見ているかが全てである。


仕事全般にもいえる。

自分を羊の群れの一員として、仕方なく、あるいは無思考で従っているのか。

人間として働き、思考と工夫による選択をし続けているのか。

どんな人間が子どもの教育に関わっているのかは、何を言うかよりも決定的に大切である。


子どもたちは、学校に何のために来ているのか。

友だちと遊ぶのが楽しいなどというのは当然付随してくることであるが、学びの本質は何かである。

子どもも一人の人間として、学ぶ者としての矜持をもって欲しい。

教室で学ぶ主役として、面倒なことにも挑戦して欲しいと願う。

そのためには、それを教える側の大人も、面倒に挑戦する必要が出る。


しかし実際、大人も子どもも、面倒だから立場のある人に決めて欲しいと願う。

それ自体が間違いという訳ではないが、それは民主主義ではない。

自分たちの生きる場は、面倒でも自分たちで作る。


そのために必要なことの一つが、権限移譲である。

教室で教師の握りしめているあらゆる権限を、少しずつ手放していく。

ただし最初からすべて集団に手放すと、混乱を招く。

集団の育ちを見て、少しずつ手放していく。


学級の中の、何を教師が決めて、何を子どもが決めているか。

子ども自身の決定の割合が多ければ多いほど、民主的であるともいえる。

一方で、民主主義の成否は成員のレベルに左右されるため、やたらと権限委譲すればいいというものではない。

集団が育つためには、個の育ちも必要である。


朝の会、帰りの会。

授業中。

給食。

掃除。

休み時間。


どれぐらい、子ども自身が決定する時間をとれるかが勝負である。

同時に、どれぐらい教師自身が自分の仕事について決定しているかである。


面倒な民主主義だが、面倒で大変なことにこそ価値があるということを伝えていきたい。

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