前号で、民主主義は面倒くさいが大切ということを書いた。
働き方改革にもこれは関連している。
働き方改革では定刻退勤や超過勤務の禁止など、労働条件についての言及が多い。
要は、働かされすぎている教員は、被害者という立場である。
そして、被害者という意識からは、主体的な問題解決は生まれない。
絶対王政の元でなら、これはわかる。
いわゆる、素直に飼われているだけの羊の状態である。
そこで飼われている無力な羊が酷使されているなら、これは問題である。
しかし、学校という職場は、絶対王政の場ではない。
本来、民主主義の場である。
中には、例えば教育長や校長が絶対的な権限を振るっているという場合も、ないとは言えないのかもしれない。
しかし、私が渡り歩いてきた職場において、そのようなひどい場面は一度も見たことがない。
必ず職員の意見を聞く機会が与えられ、声を上げられる場がある。
例えば、保護者からの要望にしても、これは言える。
確かに、無理な要求、理不尽な要求をしてくる人もいるにはいる。
しかし、それについて、特に意見せずに受け入れてきた側の問題や責任はないのか、ということである。
今回のテーマは、こちら側が物分かりよく、従順に、大人しくなりすぎなのではないか、という問題提起である。
「でも、教育委員会が・・・」「公務員だし・・・」という声が上がるのも予想できる。
その通りである。
雇用された身として命令には従うのが基本であるし、実際に教員一人一人に与えられた裁量権は、多くはないのかもしれない。
しかしながら、理不尽な要求を無条件でのまなければいけないということはない。
また、全く声を上げられなかった訳でもない。
一人では弱くとも、団結すれば、相当に大きい力になる。
要は、こちら側の、立ち上がる気概の問題もあるのではないか、ということである。
おしなべて、教員というのは、断るのが下手な人が圧倒的に多いと感じる。
「教育公務員」という意識が強いせいか、公に道徳的であらねばならぬと、理不尽な要求でも「NO!」というのが苦手である。
これまでの業務整理全くなしのままどんどん降ってくる新しい仕事を素直に受け入れることを見てもわかる。
ICT&コロナ対応が一気にプラス業務になったにも関わらず、減らされた仕事は何一つないという学校も多くある。
時間外に会議があったり「お手すきの先生方」で対応してしまったりするのもこれである。
(基本的に学校は慢性的人手不足であるし、勤務時間外労働中にお手すきの人などいない。)
外部機関への会議の出席や、保護者対応等を見ても明らかである。
時間外の対応だろうが届け物だろうが、頼まれたことは何でもやってしまってきたのではないだろうか。
とにかく、やれと言われたら現状のマンパワー頼りでやってきた経緯がある。
そのための資源の供給は一切なく、「個人のがんばりと工夫(=無制限の時間提供)」で何とかこなしてきてしまったのである。
そんな中の勤務時間の適正化は、改革の第一歩であるが、それができても、まだ体裁が整ったという段階でしかない。
他者から与えられたものを受け取るだけでは、何も変わらない。
形だけではなく、働き方改革の本丸は、意識改革である。
本質は、働く者としての矜持の有無である。
要は、長年の自分たちの行動が招いた結果だという自覚をもたない限り、今後の根本的解決にはならない。
この国は、民主主義の国なのである。
憲法第12条には、次のようにある。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」
国民主権なのだから、主権者は代表者に対しても、理不尽なことはないかを「不断の努力」で見守る義務がある。
責任を他に押し付けたくなるが、間違いなく我々のこれまでの行動が招いた結果である。
それがたとえ、自分の力の及ばない上からの理不尽な命令や要求があったとしても、である。
そんな空気を作ってしまった中で、新たな「被害者」を生んでしまったと考えるのが妥当である。
若い人にとって、今の教員の職場が恐ろしく見えるのは当然である。
適正な労働環境の職場を取り戻さない限り、多くの若者が教職の道を選んでくれることは望むべくもない。
(特に教育実習生を多数抱えるような学校においては、絶対にこのような面における不正があってはならない。)
民主主義は、面倒くさい。
面倒くさいからといって放置しておけば、もっと面倒なことになる。
教員の働き方改革は、教員の意識改革そのものである。
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