どうでもいい発問をすると、どうでもいいことに時間を費やしてしまう。
授業の時間は限られているのだから、主発問はよく考えたい。
最近「断捨離」というのが流行っているようだが、あれと同じである。
何かを得ることは、何かを捨てることと同義。
無駄な発問をなくせば、主発問に力を入れられるのである。
逆に言えば、無駄な発問をしている限り、大切なことを考えることはできない。
一時期の国語教育は、それこそ重箱の隅をつつくような研究がなされてた時期があったようである。
問わなくていいことは問わない。
例えば、大造じいさんは何歳ぐらいか。
よく読んで考えていけば、解を限定できなくもない。
しかし、大造じいさんが何歳ぐらいかなんて、はっきり言ってどうでもいい。
それよりも、情景描写や大造じいさんの変化を読み取った方が、国語の読み取りとして意義がある。
普段の授業でどうでもいいことを聞いてないか、反省してみるのもよい。
2012年1月10日火曜日
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