算数では、解が断定される。
1+3=5とかいたら、確実に×である。
「そういう考え方もあるね」などと言うことはない。
それが、「教える」ということである。
国語になると、急に弱気になる。
「AもBもあるね。どっちもあるね。」となりがちである。
物わかりがいいようだが、これでは子どもと同じである。
教師は教室内で特異な立場であるから、解を示す必要がある。
明確な理由も付け、AかBかはっきりさせるのが基本である。
そしてAが解とするなら、Bの考えに対して否定する理由までも示す必要がある。
それができないなら、教師が分かっていない証拠であり、教えられる立場ではないことになる。
詩を書くようというな創作活動であっても、「良い」の基準が存在する。
どれが良いかはっきり示す。
そうしないと、結局何の学力もつかない授業になる。(活動主義の授業になる。)
道徳だと、さらに曖昧になる。
しかし、価値項目があるのだから、それに沿った考え方が「良い」の基準になる。
「価値の押しつけ」というが、ダメな価値観を修正するのが道徳である。
(例えば、いじめも時にはいい、という価値観を認める訳にはいかない。)
教師は子どもと違うのだから、自信を持って解を断定できるようにして、授業に臨みたい。
2012年1月4日水曜日
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