相手によって態度を変える、と聞くと、良くないことのように思える。
しかし、この良し悪しは、場合によりけりである。
嫌がられるのは、部下には横柄なくせに上司にだけやたら腰が低い、というような場合である。
あるいは、気弱な人や穏やかな人には強気な態度で、強面の人や権威に対しては急にヘコヘコしだす、というような場合である。
これらは態度がどうこうではなく、心根の方が悪い。
人を理不尽に差別する心の醜さが態度に直結してしまっている悪例である。
別に上司に対して腰が低いこと自体は問題がなく、むしろ謙虚に見えていいことかもしれないのである。
しかし、そこに「目下の人間には横柄」という情報がくっつくことで、途端に悪い評価に転じる。
実際は、心根が優しくとも表現として見える態度がぶっきらぼうなだけの人もいる。
一方、心の中では相手を見下していても、それを一切態度には出さないという人もいる。
(特に接客業などでは、必須の態度である。)
逆に言えば「誰に対してもぶっきらぼう」という評価がされているのであれば、それを知っている人にとっては特に問題がない。
「本当は見下している」という評価がされているのであれば、それを知っている人にとっては丁寧な態度も逆にマイナスである。
このように、態度への評価というのは、心への評価と一体のところがある。
初対面やあまり知らない相手であれば心は全くわからないので、態度だけで全て判断されるということである。
だからこそ、接客業では心根はいざ知らず、丁寧な態度が望まれる。
一方で、詐欺師が相手を騙せるのも、心根にある魂胆を知られておらず、目に見える態度のみで評価されるからである。
態度については、教えるべきことである。
態度は、自己表現の一種である。
態度は、相手にどう理解され評価されるか、ということに直結する。
つまり、相手によって、態度は適切に変える必要が出る。
お客様に接する時と家族に接する時が同じでは不自然である。
「相手を大事にする」という点を外さなければ、その態度は相手によって違って然るべきである。
同じ相手でもTPOに応じて全く変えることがある。
時と場と機会に応じた相応しい態度や言葉というものがある。
同僚と話すにしても、訪問先にいるのと社内(職員室内)では違って当然である。
電話口では立場に関係なく身内を呼び捨てにするというのも、適切な態度の変化である。
(外部からの電話に「○○先生はいらっしゃいません」の誤りである。)
子どもに教えるべきは、態度が自己表現という点である。
挨拶は、態度の一つである。
どのような挨拶をするか、あるいはしないかという自己表現である。
物の扱いも、自己表現である。
相手を見て両手で物を渡せば、丁寧な態度の人という評価を受ける。
つまり、相手を見ず片手で渡すことで、無礼な態度の人という評価を受ける。
片方を学べば、逆も同時に学べるのである。
そして態度への評価は、多分に相手の受け取り方次第である。
丁寧な態度のつもりが、よそよそしいという評価を受けることもある。
親しみやすい態度のつもりが、なれなれしいという評価を受けることもある。
服装にしても髪型にしても、内面の自己表現の一つであり、その評価は受け手次第である。
きれいに装いを整えたつもりが、華美だ、派手だという評価を受けることもある。
親しみやすくカジュアルにしたつもりが、だらしないという評価を受けることもある。
長く伸ばした髪をきれいだねという人もいれば、鬱陶しいから切れという人もいる。
染めた髪を似合ってていいという人もいれば、髪は黒しか認めないという人もいる。
若い社会人や学校に通う子どもたちが悩むのは、この辺りの自己認識と評価とのギャップなのかもしれない。
態度について教える。
こういう態度が絶対にいい、ということを示すのではない。
態度は自己表現であり、相手による評価対象であるということを教える。
態度の選択は、社会における対人スキルである。
態度について指導できるとしたら、この程度のことまでである。
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