メルマガ第2099号(2022/2/19)の記事
態度とは、人間関係を構築する上での、外から見える内面の表現である。
またあくまで表現なので、言葉と同様、内面がそのまま出ている訳ではないという前提が必要である。
そして聞く態度が悪いと、気になる。
指導したくなる。
こちらが不快という点もあるが、子どもの将来を考えるという面もある。
この「将来を考えて」というのは、長期的視点として非常に大切である。
今を凌げばそれでいいという考えとは違う。
しかしながら、過ぎたお節介も考えものである。
こちらは子どもの将来を考えて指導しているが、相手がそれに感謝してくれるとは限らない。
むしろ、大半は「口うるさい」と思われるだけかもしれないというリスクをはらむ。
本人が「別にそれでいい」というのなら、それは本人の選択である。
ただ知らせるべき点は、悪い態度をとれば周囲が不快に思い、周囲からの扱いもそれ相応になるという点である。
望ましくない態度を改める気がないという場合、そういう覚悟をもってその態度を貫くことである。
つまり、態度について指導する場合、お互いに覚悟が必要になる。
相手が求めないお節介やサービスは、基本的に要らない。
こちらの都合で伝えることはあっても、相手にとっては要らないものであることは変わりない。
本来、態度が不快な相手には、相手をしないことが一番である。
教育の仕事の場でなければ、進んで関わることはまずないはずである。
なぜこんなことを書くかというと、それに深く悩まされる人が多いためである。
そんな悩みをもつような人は、基本的に善良で真面目な人である。
「指導者である自分が悪い」と自分を責め、思い悩むようだが、本当は関係ない。
相手の態度は、誰がどう教えようが、相手が子どもだろうが大人だろうが、そのまま相手自身の課題である。
こちらの立場がどうであれ、互いを尊重する人間関係という点では平等であり、同じである。
しかし実際は、不快な態度の人も相手にせざるを得ないというのが、人間社会の現実である。
店員さんに対し、客だから偉いとでも言いたげな態度の人がいるが、それを理由に退店させる訳にはいかない。
子どもの社会でも同様で、同じクラスに意地悪をしてくる子がいても、すぐにクラスが変わる訳ではなく、全く接さずに生きるのは難しい。
そうなると、この嫌な人の相手をする側は、これ以上怒らせたり嫌がらせをされたりしたくないから、懐柔策に出る。
なだめすかしたり、ご機嫌をとったりして、その場をやり過ごす。
結果、横柄な人はますます横柄になり、横暴になっていく。
冒頭の話に戻るが、長期的視点である。
学校は、よくなる可能性のある人を、横暴な人に育ててしまってはならない。
こういった不快な態度の子どもに対しては、子ども同士ではなかなか注意できないため、結局指導者がやるしかない。
短期的にはこちらが嫌な思いをしても、長期的視点での対応がやはり望ましい。
最高なのは、本人に気付かせられることだが、これは思考がまだ柔軟な子ども相手でもかなり難しい。
内面を変えるというのは、本人にしかできない主体的な作業なのである。
態度が悪いという相手を諌める時、こちらがノーダメージという訳にはまずいかない。
何と言っても、一筋縄ではいかない相手だからこそ、ここまで増長してきたのである。
相手が怒る場合はまだましで、「ウザいんですけど」というような対応をされることも珍しくない。
理不尽に逆恨みされて陰口を叩かれることすらも覚悟しないといけない。
それらもリスクをとった結果として、受け止めるしかないのである。
そうなると、どこまで自分のリソースを差し出せるかである。
態度についての指導をするというのは、そういうリスクへの覚悟がいる。
こちらも傷つく覚悟がなければできないことなので、多くの場合、難しいとされるのである。
子どもへの本質的な態度の指導というのが、どこまでできるものなのか。
もう少し掘り下げていきたいテーマである。
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