能力の違う者同士が、同じ教室に集まって学ぶ。
その意義は何か。
極端なことを言うと、「技能」を向上させることだけが目的なら、エリート集団の中で一人で努力する方がよい。
できるもの同士が集まって、しのぎを削って相手より上になることを目指せば、自ずと技能は向上する。
大学受験の模試などは、この心理を有効に利用しているといえる。
進学塾なら、最も求められるものは「テストの点の向上」であり「合格率」という実績である。
保護者が塾に大枚をはたいているのは、そこを求めているからだろう。
「うちの塾は合格実績は求めません」という進学塾が流行るとは思えない。(それは別の目的の塾である。)
だから塾は、「個別指導」と「能力別クラス」が主流である。
しかし、学校教育は「技能」向上のみを目指すものではない。
心の面の成長が欠かせない。
そこに「学校」と「塾」の境目があるように思う。
能力の差異はあれど、理解しているものが未熟なものに教える。(寺子屋はまさにこれである。)
役に立つ自分を実感し、助けてもらえることに感謝する。
時に異なる意見をぶつけ合って、そういう考え方もあるのかと謙虚に学ぶ。
そういう、心の面での成長、他人を思い遣るという面の成長があることが、教室で学ぶ意義ではないかと考える。
2011年11月20日日曜日
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