前回『くだらない「かけ算論争」と決断できない教育現場』という記事を書いた。
これがまぐまぐニュースになり、ドコモのニュースサイトでも紹介されていた。
くだらないようで結構、人々の興味の対象ということである。
最近はまた
「筆算で定規を使わないと×」
とか
「絶対に下敷きを使わないとダメ」
とか、何十年前にも喧々諤々の論争があったのものが、再燃して色々騒がれる。
ネットやSNSの作用である。
それら全ては「謎ルール」とラベリングされることで思考停止し批判の的になり、一緒くたに処理される。
ただ前回「くだらない」と批判した先の中心は、論争自体の方ではない。
後半の「決断できない教育現場」の在り方そのものである。
正直、どんな議論でもそうだが、どちらの立場の意見にも、それぞれ理は存在するのである。
三分の理すら存在しないということはない。
ただし、全ての「正しさ」は、場が決める。
時代や文化によっても変わる。
時の為政者が決めることもある。
それは即ち、宇宙の真理とも言えるような絶対的な正しさは存在しないとうことの裏返しでもある。
では、そんな中で、現在の日本の学校教育の指導内容の正しさは、誰が規定しているのか。
教育基本法であり、それを受けた学習指導要領であり、つまりは文部科学省が決めているのである。
そこに決断して欲しいのであるが「現場の主体性の尊重」というような言葉でうやむやにされてしまう。
では、現場が主体的に判断しよういうことでいざ決断すると、ここに批判がくる。
もっというと、裁判沙汰である。
そうなるのは嫌なので、「主体性を尊重」された現場の方も、やはりうやむやにする、ということになる。
いわゆる上から下まで全てが「入れ子構造」である。
誰も責任を取ろうとしないのだから、結局決断しようがない。
本来指導すべき内容も「どちらでもいい」となるのである。
ここに関連して、次の「みんなの教育技術」(小学館)の記事は示唆に富んでいる。
ボツになった三つの原稿 ー上司、上役の判断、決断の「気がかり」ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第59回】
以下、記事中より引用する。(メルマガの読みやすさの都合上、句点毎に改行)
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(引用開始)
「最も気がかり」なことを述べたい。
上司、上役、責任者の「判断」や「決断」が、「善」や「正義」を貫くことよりも自分の立場や責任上、現在の「平穏、無事」を保つための「保身」に傾くことである。
それは、「公」よりも「私」を重んずることである。
漱石は晩年「則天去私」の境地に到達したとされる。見事である。
(引用終了)
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「公」よりも「私」を重んじて、判断と決断ができないのは、学校だけではないようである。
そしてそのくだらなさと弱腰の姿勢を批判すべきは、「上」ではない。
それをよく考えずに甘んじて受け入れ、付和雷同している、自分自身の方である。
よく言われるたとえ話に次のものがある。
人を批判して指差す時、「人差し指」の1本のみは相手を指している。
他の「中指」「薬指」「小指」の三本は、自分自身を指している。
(私見としては「親指」だけが誰も指していないことも象徴的であると思う。)
結局、現場にいる人間がそれぞれ行動しない以上、何も変わらないということである。
命令する側からすれば、理不尽で変なことでも大人しく従ってくれているのだから、変えようと思わなくて当然である。
それは、本来正しくないことを是とすることであり、公にとっても大きな損失である。
そういう意味では、一見「くだらない」と思われる各種議論には意味がある。
しかしその場合、多様性に対して前向きな議論である必要がある。
なぜならば、「多様性を認めよう」ということは「多様性を認めない」という考え方をも包含するからである。
一見矛盾しているようだが、それが真理である。
真逆の考えは自分にとっては正しくないが、相手にとっては正しい。
「これだけが絶対正しい」という考え方は、危険である。
その前提の上で、指導する時にはとにもかくにも「正解」を示すというのが教える者の仕事だという話である。
たとえ心の中で「違う考え方も存在する」ことを認めながらも、である。
私はネットの匿名で「頭がおかしい」とまで言われたことが何度もある。
恐らく、世の常識や当たり前を問うような、はっきりとした主張をしているすべての人に、不可避の体験である。
なぜならば、記事や書籍等を通じて「私」としてはっきり「主張」しているからである。
一つの主張には、必ず反論が出る。
陰と陽はセットであり、一方の存在により他方が存在できるからである。
つまり、「そうかも」と無意識下で思っていることほど、反論せずにはいられない気にさせてしまう作用がある。
これは、先の一見矛盾する多様性の尊重の話にも通ずる。
結論、当たり前に思っていることにも、議論が必要ということである。
そして、声や権力の大きい者や世間の批判にあっさり引き下がるのではなく、自分の考える正しさを言語化して伝えること。
年齢や立場の如何を問わず、この姿勢が必要ではないかということの一つの主張である。
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