2023年10月29日日曜日

働き方改革の本丸は徒労感の解消にあり

 働き方改革について。


現場教員としてのリアルな感覚を述べる。

100%主観であり全ての教員に一律に当てはまるものではないが、私という一つのモデルの示す事実でもある。


まず第一に、労働時間について。

これについては、かなり的外れな指摘や「改善」提案が多いと感じている。

教員の長い労働時間自体は、今に始まったことではない。


はっきり言えば、教員の仕事自体が辛いのではない。

やり甲斐を感じられない作業や無意味だと思える仕事が多すぎるのが辛いのだ。


法的に決められている仕事がある。

例えば出席簿等の学籍関係、あるいは指導要録や抄本などの記録関係書類の作成等である。

これらは法が改正されない限り拒否できない。

やる意義や必要性どうこうを考える前に、やるしかない。


何の見返りもリアクションもない各種アンケート類や報告書への回答。

どこぞの各担当部署から出る「ちょっとした調査」が積み重なり、湧き水がやがて大河になるが如く、雪崩のように押し寄せてくる。

(これはどちらかというと、管理職など外部との折衝が多い立場の人の方がより苦しいかもしれない。)



内容はさておき無節操に増え続ける各種年代毎の悉皆研修。

(せっかく免許更新講習がなくなったのに元の木阿弥状態である。)


ウィルスや事件・事故、あるいは「新教育」と連動して常に増え続ける「〇〇対応チェックリスト」系への記入。

最初に作って指示した人はもう既におらず、「もういいでしょう」と誰も言えない、旧制度の残滓の数々である。


当然のように過剰サービスを求められ続ける各種の「丁寧な」対応。

「教員の使命」の名のもと、「これぐらいやるのが当たり前」のレベルが高すぎる作業の数々。


それら無意味としか思えない事柄に時間を食われることが辛く、徒労感という大きな疲労に繋がっているのである。

無意味の中に意味を見出すことはもちろんできるが、それはこの問題の本質的解決にはならないどころか、真逆の方向である。

どうでもいいことをより能率よくこなせばこなすほど、より事態は悪くなっていくのである。

どこかで「NO!」をはっきりと突き付ける必要がある。


「日々の授業準備に追われている」というが、これも表現的には誤っている。

大抵の教員にとって、授業準備自体は、嫌なものでも辛いものでもなく、本来、楽しみですらある。

しかしそれを始められるのが確実に勤務時間外、日がすっかり沈んでからという現状が日夜続くことに、絶望感を抱くのである。


そして「仕方ない」「下らない」と思う、我々の手の届かない位置から降りてくる各種命令に従うほどに増す徒労感。

過剰なほどの準備・対応を命じられ、それに従う際の拭いきれない違和感。


これらあらゆる「使役」のもたらす精神的疲労感は、子どもを相手にしたり授業準備したりといった爽やかな仕事の疲れとは一線を画す。


次に話題を変えて、各種手当について。

これも完全に的外れであると感じている。


ここは手当が増えれば嬉しいだろうという単純な構造ではない。

給与自体が倍増するというような劇的な変化でない以上、大した効果は生まないどころか、逆効果にもなりかねない。

(そもそも教員を志すような人の多くが最初から強く求めているのは、そこではないはずである。)


ここについてはよく指摘されているが

「残業手当を増やすということは残業を認めるということ」

でもある。

つまり、よりよい対価を支払われるのだからもっとがんばれということにもなり得る。


私は部活動指導がないので直接関係ないが、休日に4時間以上部活動指導をすると一律3600円が支給されるという。

4時間「以上」で初めて支給され、一日中だろうが同じ「一律」の金額である。

この金額を「多い」と感じる人は少数派だろう。

ほとんどの自治体の最低賃金で定められている時給より低いレベルである。

自分が実際に毎週のように指導してみれば、その大変さがより顕著になるはずである。

そして根本的に、部活動指導は、時給換算のアルバイトでは決してない。


そこでもし「税金からきちんと支払われてるんだからもっとがんばれ」と言われたら、相当やる気をなくすのでないかと推察される。

休日を返上してまで部活動に情熱を注いでくれている(あるいは仕方なしにでもがんばってくれている)教員が主として求めているのは、そこでないことだけは確かである。


なぜこれら「奉仕的」教育活動に対して「お金で解決」が良くないのかというと、お金という存在自体がその対価として見合わないからである。

例えば、気持ちよくボランティア活動をしている人々に対し、時間や成果に応じてお金が支払われたら、かなりの違和感である。

やるせない感じと、やる気が一気に失せること必至である。

部活動指導の対価として求めているのは、そこではなく、学びや満足感、充実感など、知的な面や感情的な面の方である。

(あるいは義務感でやっている場合、きちんと休日ぐらい休ませてくれという切実な思いの方である。)


ちなみにこの考え方には、基になる参考文献がある。


世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 

近内悠太著 ニューズピックス



贈与というのは、資本主義的な交換の原理、ギブアンドテイクの原理と根本的に違う。

その考え方では、贈与という行為と折り合いがつかないのである。


この本を読むと、我々の仕事の「やりがい」と呼ばれるものの真の正体は、贈与であると考えられる。

それが将来誰にとってどう役立つのかはわからないし見届けられないが、それが後で「役に立っていた」と感じる瞬間がある。

しかも、その瞬間がいつ来るかも、あるいは来ないかもわからない。

加えて、その鍵を握っている主体は、贈与を与える側ではなく、受けとる側である。


それでも、信じて、ひたすらやる。

教員の仕事の本分は、まさにここにあるといえる。


やりがいは、それをやること自体に価値を見出しており、その対価を求めないのである。

「やりがい搾取」という言葉があるが、真のやりがいは他によって搾取されない。

なぜなら、心の底からやりたくてやっていることの場合は、周りがどんな意図であれ、絶対に他に「やらされていない」からである。

(例えば大好きなゲームやマンガに没頭している時、あるいは気の合う大好きな人と一緒にいる時、「やらされている」「読まされている」「いさせられている」と感じている人はいないだろう。)


これらの全ての事柄についてまとめると、働き方改革の本丸は、労働時間短縮や金銭の問題以上に、徒労感の解消である。

くだけた表現をすれば「どーでもいいことをしない(させない)」に尽きる。


どーでもいいことをしない主体は、働く側にある。

これは『不親切教師のススメ』で提唱している数々の事柄などが例に挙げられる。


一方で、どーでもいいことをさせない主体は、管理者など命じる側にある。

「働き方改革」で経営陣側に求められている点は、ここである。

例え本質的に「どーでもいいこと」であっても、それを命じられた側にとっては、何とかして消化するしか選択肢がないからである。


そしてこれは、学級担任から子どもに対してでも当てはまるので、一般の教員にとっても無関係ではない。

「どーでもいいこと」に服従することに慣れた子どもが、どんな大人になるかである。

働き方改革について真剣に考えることは、目の前の子どもへの教育について考えることにも繋がる。


働き方改革は、どうでもいいことではない。

現場が真剣に考え、それが本当に意味があることなのか、真実を探っていく作業である。

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