道徳教材からの気付き。
2年生の光文書院の道徳教材に『モムンとヘーテ』というお話がある。
徳目は「友情・信頼」なのだが、自分は違うことを考えた。
(この「同じ教材なのに人によって違うことを考える」というのが、今の道徳の授業で大切なことではないかというのが持論である。)
このお話は、ざっくり言うとケンカした二人の小人が仲直りする話である。
島が水没直前の状態で、二つしかない小舟に積んだ荷物をすべて捨てることで、友人を助けることにする。
二人はそれぞれ一つずつの小さな小舟に乗って、無事に島を脱出する。
そんなお話である。
自分は正直、ここに、友情や信頼どうこうはあまり関係ないと感じた。
この状況で荷物よりも人命優先は当然の判断である。
相手との人間関係がどうかも全く関係ない。
飛行機における避難時の脱出の際のルールと全く同じである。
(そういうことの正しさや判断基準を教える意味ではいいのかもしれない。)
この教材でどう授業するかを考える際、全く違うことを考えた。
まず、他人の分まで責任をもつ必要はないのである。
人生においては、各々、自分の荷物を自分で背負うことが大切なのだ。
背負えない人の分の荷物は降ろさせる。減らす。捨てる。
安易に代わりに持ってやってはいけない。
一緒に沈んでしまう可能性が一気に高まる。
もし持ってあげるとしたら、それは一生寄り添う覚悟がある場合のみである。
家族という最も親密な関係の間ですら、果たしてどうか考えるべきところである。
そして、救うなら、モノ(仕事)ではなく、人間を優先する。
当然のことである。
仕事においてもこれは言える。
仕事をどんなに優先しても、その人自身が救われる訳ではない。
仕事は、それをこなす限り永遠に増えてやってくるものだからである。
そもそもその荷物が多すぎる、重過ぎるという可能性を疑うことが先である。
人命救助が優先である。
多分、社会全体が、真剣に教員について考えてくれていると思う。
以前にも書いたが「教員はお気楽な仕事だ」と思っている人は、当事者はもちろん、世間的にも少数派であると感じている。
総仕事量自体が、全職員の「積載可能量」を完全にオーバーしているのである。
たとえ誰かを楽にしても、その分のしわ寄せが誰かにいく構造である。
その原因は、捨てていないからである。
要らない荷物が多すぎる。
かつては輝いてたその品物も、もはや骨董品というより単なるガラクタである。
例えるなら何十年前に流行った服など、クローゼット内を圧迫するゴミ以外の何物でもない。
さっさと捨てた方がよい。
色々な人が言っているが、もうあと2~3年以内に、学校現場は人手不足によって破綻するという。(既にしかけているが。)
私もこの意見に同感である。
人が更に減るということは、自分にその荷物が回ってくるということと同義であり、自分自身への危機と真剣に受け止めている。
当然、私のところに回ってきたら、大部分は捨てさせてもらうつもりである。
どうでもいいような荷物と心中する気はない。
国レベルの問題であるから、政治家でもない現場の自分たちが主体的にできることは限られる。
足元の仕事を捨てることである。
全部真面目にやってるからいけない。
砕けた言い方をすれば、そもそも設定自体が「無理ゲー」なのである。
本質的な、捨てられない仕事とは何か。
わかりきったことだが、子どもと向き合う仕事である。
そして、子どものよりよい成長に寄与する仕事である。
学習指導の在り方は、今後根本的に変わる必要がある。
申し訳ないが、義務教育においてもある程度以上の学年からは、一斉対面授業でなくてもいいというのが本音である。
特に中学・高校以降は、受験を考えるなら間違いなくYouTubeのようなオンデマンド型の手段か個別指導が有効である。
クラス内の個々の理解力の差が大きすぎるからである。
また一斉配信による指導は、もう何十年も前から大手予備校が採用して実績を上げている有効な方法でもある。
コロナ禍において、対面することの意味や価値が再確認された。
同時に、実はなくてもいい仕事がかなりあることもはっきりした。
わざわざ復活させる必要は全くない。
かつて要るものだったものは、もう要らないのである。
本当は、国レベルでなくして欲しい作業は山ほどある。
一度作ったら二度と見ない書類を日々山ほど量産しているのが学校現場である。
しかし、それを言っても仕方がない。
学校裁量、学年裁量、学級裁量でなくしていける仕事をどうにかするだけで、大きく変わる。
常々言っているが、「ドリルの〇つけ」や「教室掲示」は、子ども自身にもできる作業である。
「それぐらいのたかが小さな仕事」が積り積もっているから、とんでもない莫大な量になっているのである。
旅行が下手な人の、「万が一」に備えてパンパンに膨らんだバカでかいスーツケースのようなものである。
そもそも、たかが担任というだけで、子どもの人生の荷物を代わりに背負ってあげる訳にはいかないのである。
「担任」が「担い、任されている」のは、子どもたちの人生そのものではない。
少ない知識と人生経験から「こうするといいと思われます」という程度のものを提示するだけである。
それだけでも、後々の影響を考えれば「蝶の羽ばたき」どころではない大きな仕事である。
教員の仕事は、本来大変さもあるが、楽しいものである。
子どもたちが喜ぶ姿、成長する姿を目の当たりにした際に得られる感覚は、恐らく他の仕事には代え難い。
今は、楽しさや喜びの方のサイズや質の問題ではなく、大変さのサイズが度を越しているのが問題なのである。
要らない荷物は、捨てる。
自分自身を含め、人命を優先する。
働き方改革を考える上で外せない視点である。
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