無理をしないということについて。
働き方改革とは、定時に帰ることではない。
それぞれの願いに沿った働き方ができるようになることが肝要である。
働く人の中には「定刻退勤」こそが願いに沿う人たちがいる。
子育てや介護、あるいは仕事とプライベートを分けて生きている人など、事情も理由も十人十色である。
ここにとっては、望まない残業は理不尽であり「無理」になる。
働く人の中に「仕事こそ生き甲斐」という願いをもつ人たちがいる。
仕事をしている時間が何より好きで、プライベートは一切興味なしという人もいる。
大学に勤めているような研究肌の人には特に多いのかもしれない。
あるいは、時間外になってゆっくり仕事をしたいという人も多くいる。
ここにとっては、定刻で早く帰らされることが「無理」になる。
要は、無理強いそのものがよくないのである。
残業時間自体が多いことが問題となっているが、そこは問題の表層であり、本質ではない。
規定時間外の枠を、本人の願いに沿ってどうするか選べなかったことこそが問題の本質である。
部活動の地域移行についても同様である。
部活動に嫌々従事していた人にとっては、万々歳だろう。
しかし放課後でも土日でも部活動をしたい人にとっては、それを取り上げられる形になるかもしれない。
今は多様性の時代なのだから、「選べる」がキーワードである。
子どもたちの立場からしても、部活動は本来「選べる」ものだからこそいいのである。
教える立場からしても同様である。
この点は、学校教育の中において、子どもの側の方が早く移行してきた。
部活動自体を選べるのはもちろん、入るか入らないかも決められる。
小学校の時点から放課後の時間の使い方について裁量権が与えられており、家庭教育に委ねられてきた。
ここで働く大人の側も、裁量権を多くして無理なく働こうという動きである。
流れとしては正常化としてとてもいいのである。
しかし、これまでの体制と大きく異なるために、あちこちで一時的に歪みが起きている状況である。
今までと大きくやり方を変えるというのは、一時的にパフォーマンスが落ちることが多い。
教育メルマガなので、身近な指導の例で考える。
例えば、各校で取り組んでいるであろう縄跳び。
ある日、一年生の子どもが二重跳びを上達させたいらしく、休み時間に一生懸命に跳んでいた。
3~4回ほど跳べるのだが、そこで毎回引っかかる。
縄が回し切れないのである。
さてよく見ると、縄が身長に対して非常に長い。
片足で縄を踏んで両手で引っ張ると、頭の上まで上がる。
逆によくこの長さで二重跳びが数回できていたものだと感心した。
(ちなみに、前跳び等を覚える初期段階や交差跳び系は長めの方がやりやすい。)
私は親切にも、この子どもの縄跳びの長さを調節してあげた。
「常識」的に二重跳びで回しやすいであろう、胸の上ぐらいの位置の長さに調節してみたのである。
言うなれば一般的に「正解」の長さである。
どうなったか。
跳べずに1回目で引っかかった。
次も、次も、そのまた次もそうである。
よくよく考えたら、本人としてはあの長さで回していたやり方のままなのだから、当然である。
急に短くしすぎたと思ったので、目の高さぐらいまでに再調整したら、一気に連続で跳べるようになった。
(心からホッとした。)
要は、旧来のやり方が身に付いている以上、急激な変化には対応できないということである。
よかれと思って「正解」を押し付けず、ある程度本人が無理なく選べるようにしないと、大幅にパフォーマンスを落とす。
とにかく、無理をしないことである。
選べるようにすること。
現場は何かと改革が進むが、この辺りの意識をもって取り組むことがスムーズな働き方改革につながると考える次第である。
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