2016年1月10日日曜日

脱「上げ膳据え膳」

前々号の子どもにできることはやらせようという話の続き。

以前5年生を受け持った時、米作りを通した総合的な学習を行った。
田植えや稲刈り等を通して、米作りについて体験的に学ぼうという試みである。

農村部にある学校ではなく、思い切り住宅街にある学校である。
当然、川などはなく、普通に水道を使うことになる。
耕して、防水シートを貼って、畦を作って、かなりの大作業である。

何より、水の管理が大変だった。
特に夏場は、水がすぐなくなる。
川ではないので毎日水を入れねばならず、学年職員が交代でこの作業に当たった。
しかも、水が入るのにも1時間以上かかるので、溢れないように見ている必要もあった。

問題だったのが、一連の大変な部分をすべて教師側がやっていたこと。
子どもがやったのは、観察が中心で、作業としては田植え、稲刈り、脱穀、そして最後に食べるだけである。
仕方のないことかもしれないが、これだけだった。

稲刈りの時、ある子どもが放った言葉がすべてを物語っていた。
「先生、お米って、簡単にできるんだね!」
無邪気に笑ってそう言った。
純粋に、そう思ったのである。

これは失敗したと思った。
それはそうである。
子どもは、楽で楽しい作業を少ししただけである。
後は「上げ膳据え膳」の状態で、何もかもしてもらっているのである。
苦しい思いなど何もしていない。
感想は「米作り、楽勝」なのである。
これでは、農家の人もうかばれまい。
何のための総合的な学習の時間なのかわからない。

普段の学校生活の中でも、こういった教育をしてしまっていないか。
例えば担任が「放課後に子どもの机をすべて整える」ということを続けたとする。
ねらいがあるだろうから、これ自体はいい。
「整った教室環境」という視点から見ると、プラスである。
しかし、これによって「整頓をしない子ども」が育つのは問題である。
子どもの成長という視点から見ると、マイナスの教育になる。

とにかく、やってあげ過ぎは往々にしてマイナスの効果を生みがちになる。
過ぎるか過ぎないかの判断基準が「子どもが自力でできることか」である。

「アクティブ・ラーニング」にもつながる大事な部分であるので、もう少し続く。

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