「新たな定理を生み出す」というような高尚な行為は、数学者の領域である。
小学生に求めるのは、完全に間違えている。
「0」という数だって、今でこそ幼児でも普通に使うが、かつての数学者の偉大なる発見である。
凡人に「考えて」生み出すことなど到底できるものではない。
「0なんて簡単」と考えている子どもがいるとしたら、結構な勘違いである。
「数学は考える教科、ひらめきの教科で、答えを見ると思考力が育ちません」という方向の考え。
本当だろうか。
小学校の算数は、考える段階ではない。
本当に算数を考える教科であると主張できる人は、大学レベルの数学を解く人である。
(あれは、一般の人には、解けない。何が何だか意味不明である。)
多分、そういう数学者の人達も、算数を「考えて」解いた経験はないはずである。
ガウスのような子ども時代からの天才を引き合いに出す人もいるが、あれは「天才」である。
自分達とは違う。
どんなにいいことを言っても、子どもは、背中をよく見ている。
後ろから見られているから、見られている方は気付かない。
実は後ろで、真似しているのである。
後方にいるものだから、言葉は届かず、姿だけがコピーされている。
子どもに求める姿があるなら、まず自分がそうなろう。
算数の授業で教科書を見せずに問題を解かせたい人は、まず自分が数学の問題をやってみることが大切だと思う。
2011年12月18日日曜日
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