「みんなちがってみんないい」
ご存知金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」の詩の最後の一文。
いい言葉である。
人はそれぞれ違うのだから、違いを認めようと。
まさにその通りで、反論の余地はない。
私に向かって「何でお前はそんな字しか書けないんだ。普通の字を書け。」と言われても、凹むだけである。
他の部分なら、結構いいところもあるのである。
技能に関する面は、個人差を認める前提で、かつ全員が「できる」ように工夫をするのが教師の仕事である。
できない子どもを詰めすぎてもいけない。
どんなに工夫を凝らしても、できない場合もある。
結果的に全員「できる」ようにさせられるなら、それはプロの仕事である。
前号まで水泳の話をしたが、水泳指導において「全員を泳げるようにする」のは、大きなテーマである。
一方で、集団教育においては認めない「個性」があってもいい。
例えば、ルールやマナーを守るという点。
言葉遣い。
それらは、学校教育の場において強制(というより矯正)をしてもいいと思う。
学校の教師に対して横柄な言葉遣いをするようでは、外の社会でも同様のことが起きる。
将来、結果的に困るのは子どもの方である。(ちなみに教師側にとっては何も変わらない。)
だから、そこは強制的に矯正する。
元気がいいだとかおとなしいだとか、個人差はどうでもいい。
やるべきことはやる。
個性を認めつつ、そういう信念を持った姿勢も必要だと思う。
2011年7月20日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿