本音を言う。
全員が全国統一された画一的な目標に辿り着くことは無理だと思う。
算数が苦手な子どもは、ある程度以上を求めても厳しい。
図工が苦手な子どもも、体育が苦手な子どもも同様である。
私に音楽や家庭科を教えた先生の苦労が偲ばれる。
ただ逆を言うと、やりようによっては個人の最大限までは引き上げられるということである。
どうせできないだろうと思ってやらせない、努力しないのは、最大の罪である。
わかりやすい例で言うと、鉄棒運動の逆上がり。
せめて2年生ぐらいまでに本気で取り組んだ経験があれば、9割以上の子どもは何とかなる。
この時期を逃してしまうと、もう取り返しがつかなくなる子どもが出てくる。
だから、やはり建前として、到達目標を立てる意味はあると思う。
ただ本当に全員がそこに辿り着くかというと、本音を言うと難しい。
それも分かった上で、最大限効果のある方法を模索することが大切だと思う。
できなくっても「がんばったね」と声をかけることは必須である。
ただし、教師がその言葉に甘えた時、教師も子どももそれ以上の成長は望めなくなる。
教師は教えるプロなのだから結果が必要である。
できなくても努力する前向きな心を養えたなら、それも結果。
やっぱり自分はできないという気持ちを植え付けさせても、一つの結果。
どんな場合であれ、質の良い結果を残してあげたい。
建前も使いようである。
2011年8月25日木曜日
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