オンラインで行った「学級修養会HOPE」で反響のあった話題。
子どもたちと「ルール」や「自由」について話し合う機会が多い。
憲法の学習をした時はもちろん、学級会、あるいはトラブルがあった時など、日常的に問いかける。
道徳の時間に「本当の自由とは」というテーマで話し合った。
子どもたちからは様々な意見が出たが、集約すると
「自由とは、決まったルールの中で自分のやりたいことができること」
というような意見である。
この意見は、急に出てきたものではない。
これまで憲法の学習をはじめ、様々なに話し合ってきたことが生きている。
最初の頃は「何でもやりたいことを好き勝手にやっていい」というような意見も多くあった。
これは自由ではないということ、「放縦」という言葉も教えた。
「放縦」の意味は、何の節度もなく、気ままに振る舞うことである。
私からも子どもたちに
「自分の意見を言ってもいい?」
と尋ねて、いいということだったので、意見を述べさせてもらった。
先の子どもから出た自由の定義に沿っていえば「先生も意見を述べていい」というルール上で話す訳である。
私の自由に対する見解は
「自分でしたことの結果責任がとれること」
である。
この考えだと、子どもよりも大人の方が自由である。
子どもは、社会における行動の結果責任がとれない。
結果責任をとるのは基本的に親であり、学校管理下の場合は教師である。
だからこそ、大人から子どもへ「あれはだめ、これはだめ」と教えることが出てくる。
社会の枠組みがある以上、命に関わる危険なことや、他者への侵害行為は許されないことを教える必要がある。
もし子どもが社会的な迷惑をかけたら、それは本人が反省すべきものであるものの、最終的には大人の責任である。
この自由の定義の場合、見方によってはネガティブにもポジティブにもなる。
「ここまでしか動けない」と捉えることもできる。
一方で「ここまで動いていい」と捉えることもできる。
よくある例えだと、コップの半分まで入っている水を見て
「半分しかない」と捉えるか「半分もある」と捉えるかの意識の違いである。
自由というのは、基本的に社会的な枠組みの上で定義される。
(これが無人島なら社会的ルールは全くないが、失敗すれば命を落とすという自己責任がつく。)
社会において、ルールと自由は表裏一体である。
サッカーなどのスポーツでコートが決まっていることと同じである。
そのコートの範囲の中で、自由に動き回れる権利が与えられる。
プレーの結果責任をとるのは自分であり、どのようにプレーするのも自由である。
自由だからこそ、スーパープレーも生まれるし、ラフプレーをすればファウルをくらう。
サッカーで「手を使えたらもっといいプレーができるのに。ルールのせいで不自由だ。」という不満を述べる選手はいない。
サッカーでは「足を使ってボールを蹴っていい」というルールが決まっており、これは恩恵ともいえる。
他のスポーツだと、それはルール違反であることが多い。
バスケにおいてボールを蹴って運んでいるプレーヤーがいたら、一発でファウルである。
つまりルールは「ここまでしていい」という恩恵ともいえる。
例えば学校には平日8時に全員登校完了をしていることがルールであるとする。
これを
「8時までに行かないといけない」
と捉えるか
「8時までに行けば学べる」
と捉えるか。
すべて、捉え方次第なのである。
休日の8時に登校したところで、学びたくても学べないし、人も集まらないのである。
コロナ禍でそもそも登校できなかった時期を考えれば、恩恵であると捉え直せる人も増えるのではないだろうか。
学校とは、基本的に様々なルールを学ぶ場である。
そしてルールとは、ここまでしていいという恩恵であると考えれば、学びは恩恵と捉えやすくなるという一つの提案である。
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